
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(13)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
観光番付では大関
戦後昭和二十三年頃の北海道観光は急成長を遂げて、その中でも阿寒国立公園はどのような位置にいたのでしょうか。
昭和二十三年四月二十三日付北海道新聞記事から紹介。
「“乏しい生活”のなかにも最近温泉や景勝地を中心に一般の観光旅行がさかんになって本道の観光事業もようやく戦前への息吹きをもりかえしているが、札鉄局及び道観光連盟では外人本州人の誘致宣伝、施設拡充その他、将来の観光資料にするため去る二月から六月まで阿寒、大雪山両国立公園をはじめ各観光地五十七ヵ所にわたって観光客の動勢調査を行っていたが、このほどその結果が集計され二十日本年初期、本道観光番付"が発表された。」「この調査は全道の旅館ヒュッテ及び各交通機関を動員して本道がスポーツ・ランドとしての冬山シーズンである二月から初夏の六月まで五カ月間行ったもので、この期間中の観光客は総計三十万一千五百人にのぼったが、これを観光資源別にみると温泉がその約三十%十万八千六百人と最高を示し湖沼関係の四万六千八百人、名所史跡の一万八千六百人、冬山、夏山初期をふくむ山岳関係の一万五千六百人などがこれについでいる。
また各観光地別では登別の十一万六千九百人が群を抜き洞爺湖の七万九千七百人とともに東西横綱格を示め三役どころでは大関阿寒国立公園(六万六千五百人)、同定山渓 (四万二千四百人)、関脇十勝川 (一万八千九百人)、同湯ノ川(一万五千八百人)、小結大雪山国立公園(一万一千四百人)、同昆布 (1万五百人)の順で北海道の花形は温泉境というところ。
この調査による観光客の色分けは旅行経費その他の関係で道内客が圧倒的に多く約九割二十八万四千人を占め、本州からの客は東北、関関西の順に約一万七千人、外人客は六百三十人(日本旅館、鉄道を使用しないものをのぞく)で総体的にみて、青壮年層が多く健全な慰楽を求める観光客が活発になって来ていることがうかがわれ、観光北海道の明日が確約されている。」
と報ぜられているように、阿寒国立公園は道内でも小結格に群を抜き登別・洞爺湖の横綱に次ぐ大関格であったことがわかり、戦後復興の中、関係者の並々ならぬ努力が伺えます。
現在では当時の統計方法とは違っているものの、阿寒国立公園全体で約六百三万人(入込数)からすると一割にしかすぎませんが、当時としては大変な経済効果を生んだと考えられます。
第一回マリモ祭り
このような観光振興途上時代の中、前号で記述したマリモの災難は新しいイベントの誕生へと発展していきました。
それは現在でも続けられ阿寒国立公園イベントの一つ「マリモ祭」でした。
当時の北海道新聞記事(昭和二十五年十月九日付)から紹介しましょう。
「道配電による阿寒湖湖面低が招いた同湖マリモの危機は釧路国が誇る国宝的な天然記念物マリモ保護への関心を高めていたが、その保護と観光阿寒湖宣伝の一石二鳥をねらった阿寒湖マリモ愛護会、阿寒村、阿寒国立公園観光協会、マリモ保護対策委員会、道教委釧路国事務局共催のマリモよ湖水に還れのマリモ祭" は全山目もさめる錦しゅうに彩られて秋ようやくたけなわの阿寒湖畔で七日ローカル色豊かに繰り広げられた。
この日折からの週末のため土、日の休日を利用して各地から同湖畔に杖をひいた観光客はおよそ六百人を数えさらに道内数カ所でロケを続けていた池部良、三船敏郎、志村喬らスターぞろいの東宝撮影隊の一行も午後二時すぎ同地山浦旅館に到着、各旅館とも夏の間でさえなかった超満員にうれしい悲鳴をあげれば一方商店街も中央には松葉のアーチを設け、戸母の軒端にはマリモをあしらった祭飾りや絵燈籠を飾りつけて湖畔を文字通り、“マリモ祭" 一色にぬりつぶし同地は空前の人出でにぎわった。
同祭の多彩なプロのうち白眉ともいうべき行事は午後三時半から温泉街中心にある阿寒岳神社と湖畔のボッケで行われた『マリモ納めの式』で、この行事は阿寒コタン二代目秋部音作酋長(三七)の司祭のもとにアツシとチカラカルペなどに盛装したアイヌの古老ら二十名によって古式ゆかしくとり行われたが式は雌雄両阿寒岳などを初め五柱のカムイ(神)を祭る祭壇の前に湖水にる四十八個のマリモ(返還運動で集まったもの)を供え、威儀を正した秋部酋長がうやうやしく奏するアイヌ語の「マリモが自然に還ることをアイヌも共に喜ぶ」という意味のユーカラ(のりと)に始まっがそのローカル色豊かな祭の儀式は見物の観光客に多大の興趣を与え、八十幾つのメノコ(アイヌの女)らまでが"イヤ ホイホイ ヨー”(めでたい、めでたい)と身ぶり面白く踊る歓喜の踊りとともにしだいに最高潮に達しやがて踊るアイヌを先頭に紅林道教委釧路国事務局長らがマリモを捧げて境内を出発、市街の人垣を分けてボッケまで祭列を作って行進しそこから一同ボートで湖水に乗出しキネタンペの繁殖地点に達してマリモを永久にカムイの懐ろに返し歴史的なマリモ納め"の式を閉じたがこのころようやく湖畔一帯には暮色そう然と迫りさながら一幅の絵のような情景が神秘の阿寒に現出して人々の心を打った。」
と報じています。当時約六百人規模の行事としては最大級のイベントであったと推察されますが、観光的なショーではなくて、マリモを守るためのイベントで、自然保護運動の先駆的イベントだと考えます。“マリモ祭" は多くの人々の支えを受け阿寒国立公園を代表する観光イベントへと発展し、今や北海道はもとより日本の観光イベントに成長しています。
二つの観光ポスター観光
ポスターが本格的に作成されたのは昭和二十年代後半でした。
戦後最初に印刷したのは、釧鉄局発行、佐々木栄松氏筆、藤田印刷製「阿寒三湖」でした。
この企画した昭和二十六年ごろは釧路、北見、美幌、足寄、弟子屈等、それぞれが阿寒の入口を主張して譲らず、釧鉄が仲介役となり広域的観光の推進のため観光ポスター「阿寒三湖」が誕生したようです。入口の公平を守るためデザインには相当苦労したようですが、見事全国観光ポスター展に入賞を果たしています。
また札幌在住の栗谷川健一筆のポスター「まりもの阿寒湖」は、藤田印刷の社長がつきっきりで監督し、十色の契約が十四色となり採算割れとなり大変苦労したようですが、昭和二十九年ウィーンで開催された世界ポスターコンクールで見事最高賞を獲得し、阿寒の名を広く高めました。
