弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(14)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

国立公園名称運動の展開

本小史七号(てしかが広報一九九四年十二月号)で少しふれましたが、現在の阿寒町が当時「阿寒国立公園」にちなんで「舌辛村」から「阿寒村」に村名を改称した昭和十二年ごろ、「弟子屈では国立公園名を改称する運動の萌芽点になっていたのではないか?」と推察されますが、大戦により中断となり、戦後昭和二十二年ごろ「阿寒国立公園」を「阿寒摩周国立公園」に改称する論議が再燃されたと言われています。

その後昭和二十六年には「阿寒国立公園観光協会」総会時の観光関係者の反省会で、釧路信用金庫弟子屈支店長を勤めた内越三郎氏が「阿寒国立公園」の改称を提案したと言われています。

昭和二十八年には、ちょうど弟子屈町開基五十周年記念にあたる年で、これを機会に「阿寒摩周国立公園」に改称する運動が再燃すると同時に「弟子屈町」を「摩周町」に町名変更する案も持ち上がりました。

ついで昭和三十年には、あらためて「阿寒国立公園観光協会」総会で丹葉節郎氏が国立公園改称を提案し、改称運動が本格化したと言われています。

同年「富士箱根国立公園」が公園区域の追加により「富士箱根伊豆国立公園」に改称されたり、また翌年の昭和三十一年には「十和田国立公園」が同じく公園区域の追加によって「十和田八幡国立公園」に改称されたことなどが刺激になって名称変更運動の本格化がなされたものと考えられます。

この間の関係資料がないものかと捜していたところ、本編で大いに活用させて頂いている弟子屈町立図書館蔵・故種市佐改氏(現弟子屈町図書館長)の何百冊にものぼる新聞切り抜きファイルの中から偶然にも発見。

ファイル名は「釧路新聞戦後釧路十年史(観光)」、丹葉節郎氏の手で国立公園名改称運動の詳細な経過が掲載された貴重な資料でした。

丹葉節郎氏の見解

丹葉節郎氏は昨年亡くなられていますが、氏は社会教育、芸能文化、観光と、とにかく幅広く活躍され、数え切れないほどの事跡を残されており、釧路市公民館長や釧路ユネスコ協会長等の要職を歴任されていました。弟子屈町との関係では昭和十四年十月に鳥取小学校から弟子屈小学校代用教員として転勤赴任され、昭和十五年二月退職までの五ヵ月間弟子屈にいたことは知られています。

氏は前述したように釧路新聞に「戦後釧路十年史 (観光の巻)」(昭和三十一年十二月八日~昭和三十二年四月十四日まで全九十号)が連載され、この第一号をひもとくと、NHK釧路放送局で放送されたものを同放送局の好意と執筆者の了解を得て、釧路新聞に掲載したものと記されています。

このシリーズ連載中の昭和三十二年二月七日付第四十八号〜同年二月十日付大五十一号で国立公園名称変更について触れています。紹介しましょう。

第四十八号から抜粋

「・・・・弟子屈の町名改訂問題・次は“摩周町"と一刻も早く町名を改正すべきとの推進組と反対組と慎重組と三巴となり、町の発展策を練り清新の気みなぎる弟子屈の観光について述べたい。

カムイヌプリ岳 (摩周岳) 山麓の町とでもいってみたい“温泉の町”弟子屈は何事によらず摩周湖が問題の種となっているようだ。

昭和二十六年頃川湯の御園ホテルで、阿寒を取巻く地帯の観光関係者の反省座談会があり、その折りに国立公園名の改称、つまり阿寒摩周国立公園にしてはどうかという議案が弟子屈より出され、内越三郎氏が説明していった。しかし、これはそう軽々と一同の会議で結論づけることはどうかということで研究議題となったところでその後この問題を更に研究しようとする動きもなく提案先自身より毎年議案が出ないので自然立ち消えの感じになった。

これとは別に当時佐藤町長は厚生省国立公園部に何かと交渉をもった様であるが、どうやら見込みうすしの見通しを持たせられたようであった。」

続いて第四十九号から抜粋

「・・・・私の一つの提案・・・さて昭和三十年になって阿寒国立公園観光協会の総会が市産業会館を会場として開催せられた際、この問題が再び提案された。

今度は先の提案者弟子屈町ではなく私自身が提案しその説明に当った。私の提案理由は弟子屈町よりのとは異る。勿論頼まれた代弁者ではなく自由人として述べたものである。理由は「内地の客は海峡を渡って一直線に阿寒国立公園入りした場合、国立公園名に阿寒とあるので、阿寒湖畔に宿泊すれば、それで観光目的の大部分を果したものと思い勝ちで、阿寒湖畔だけではこの地帯の観光の二分の一なんだと恐らく思って居らない方も多いだろう。・・・・」

第五十号から抜粋

「・・・・阿寒摩周の名称問題・・・もしこれが阿寒摩周となれば阿寒湖畔ばかりか摩周にもウエイトをかけねばならぬという気持を起す人居り、時間を予め取ってくるに違いない。これが一点、次に阿寒湖畔だけで国立公園になったのではなく、横断道路によって弟子屈町内の摩周、硫黄山、川湯、 屈斜路湖、美幌峠が結ばれたのである。

弟子屈町は阿寒町との景勝地は五分五分であろう、又国立公園内の面積の比に於ては七分位が弟子屈である筈だ、これが一点、次は阿寒を取れというのでなく、その下に摩周を入れようというので別に摩周阿寒というのでもない。

他にいくらでも富士箱根、支笏洞爺といった名称の公園がある例を見てもどうかこれが一点、それならこの議案提出の動議は、阿寒地帯を毎日駆け廻っている阿寒バスガイドの指導をされた佐々木定五郎氏より意見の具申があり、私も常々考えて居り又、弟子屈、川湯の温泉地帯にもっと観光協会としてはお客を宿めて上げる努力をしなければならぬと思ったからである。又弟子屈、川湯に泊ってゆっくり色々な姿の摩周湖を見て、大自然にとけこむようにしたいと説明をすませるや、今迄和気あいあい裡の議場が俄かに緊張の一瞬に化してしまった。

弟子屈は阿寒の弟分・・・・・私は当然そうした事態が発生し、時によっては阿寒湖畔に大きな顔をして行けぬようになるかも知れぬが、この問題は私が自己の一身の利害を離れて提案すべきの時機と思い断こ決意して自ら怒涛の中に身を躍らせた。阿寒町関係者から何を生意気に、眠っている子供を起すような事をするなと叱られ不評を買い利益をろうだんされた様な感じを抱かせるかも知れぬ、それなら言わしてもらおう、昭和九年十二月四日国立公園指定以来若し阿寒という名称によって利益を得て居り、独占しておったなら二十年以後も経た今日兄分の阿寒が弟分の弟子屈に分けたっていいじゃないかと。

さあ阿寒村小村村長(昭和三十年当年は阿寒村)の顔面の均整が少しく乱れた様子、私は議長であるが少しく村長として言わしてもらうの反対論、つづいて片や弟子屈町の今泉町長の賛成論、阿寒観光協会長松岡義秀氏の卓を叩いての絶対反対論、川湯温泉観光協会長の根津文男氏の理論的賛成論」

続いて第五十一号の抜粋

「佐々木栄松画伯の慎重兼反対論、白馬車の飯田清隆氏の賛成論互いに譲らず、観光協会史上恐らく空前絶後の大論争が始まった。その結果、“時機熟せず”として見送りとなる。然し両者の観光阿寒に対する烈々なる情熱は永く記録に価するものと思う。

賛否両論交々越えて三十一年私が上京の際、厚生省国立公園部内に国立公園審議員石神甲子郎氏(前国立公園課長にして、阿寒は我が国最高の原始的景観の国立公園であると推称されている方)にお目にかかり意見を伺うと、他の国立公園に二つ地名のついている所があるが、それは後に前の区域に編入したものが殆んどで、要するにお互い同志自分に近い景色を他に見せたい余り名称変更をおし通そうとすることが次々と起るということであり、この道の権威の方の貴重な御意見として胸に納めて居るのが現状である。 ・・・・・・・・」

と、阿寒国立公園名称変更に対する見解を明らかにしています。

このように氏の勇気ある発言内容は、当時としては明快な名称変更理由により、大変説得力あるものであったと考えます。内越三郎氏、丹葉節郎氏、根津文男氏をはじめ多くの名称変更賛成組関係者の努力により、名称変更運動は、この時代に本格化することとなったと思われます。

更に忘れてはならない大切な人物が賛成組で活躍します。