※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(3)

歴史勉強のむずかしさ

早いもので大切なこの広報紙に、拙文を連載させていただいてから八回目になりました。しかし、回が進むにつれ、鉛筆の重さが気になるようになってきました。それは私のような素人が、歴史の勉強も不十分のまま、このように掲載させていただいてよいのだろうかという不安からです。

歴史の研究には新しい発見がつきものです。 例えば、 前号に佐野孫右衛門の硫黄鉱区の借区面積を五万十坪と書きました。これは参考にした五種類の史料の中に五万十坪、または五万坪余と書かれているからでした。

しかし、ただ一つ富水慶一氏の「釧路鉄道会社の設立と経営について」という論文に、五万五千十坪を借区したと書いてありましたが、多数の論理でこの説をとりませんでした。

ところが、最近道庁赤レンガの行政資料室に保存している「根室史草稿十六」を精読したところ、明治十年に五万五千十坪を十五ヶ年間佐野孫右衛門を許可すとあり、草稿の統計も五万五千十坪とありますので、発行年次が古く、上申や許可権を持った行政発行のこの数字が正当ではないかと思うようになってきました。

また、更科町史でも新しい弟子屈町史でも、佐野孫右衛門の死を明治十四年としていますが、これは四代目孫右衛門の実弟儀十郎(五代目孫右衛門となる)の死去した年であり、四代目は明治二十二年新潟県の寺泊で死去しているのです。

このように歴史の研究には、専門家でも多少の混乱はあるものです。まして素人の私が町史に掲載されていないことを含めて発表しようというのですから、多少の誤りや独断と偏見があるかも知れません。

どうか私が更科町史等を土台にして書こうとしているように、後の皆さんが私の説を踏み台にして、より詳細で、より正確な郷土史に改善されるよう念願しつつ、重い筆を進めさせていただきます。

硫黄採掘のはじまり

明治十年四代目佐野孫右衛門によって弟子屈町最初の産業である硫黄の採掘がはじまりました。しかし、孫右衛門が直接実施したのではなく、実弟の儀十郎 (五代目孫右衛門)や、配下の西川幸右衛門が現場の責任者になったということです。

更科町史によると、本採掘を開始した明治十年ころには、役員五名・工夫五名・坑夫三十名が従事したとあり、北海道鉱山略記では役員五名・坑夫三〇人を置きとありますので、それまで無人のまま噴煙を吐き続けていた硫黄山ろくに、三十数人以上もの人間と馬が入って産業活動を開始したわけですね。

ここで興味をひくのは、初めて硫黄を採掘した場所や、硫黄を運んだ道や、坑夫たちの生活の状態がどうだったかということです。

それでは明治二十二年発行の北海道鉱山略記という本と、釧路市史編さん室提供の地図によって、当時を考えてみましょう。

鉱山略記によると「明治十年四月借区坪数五万拾坪ノ許可ヲ受ケ今ノ第二号第三号山ノ採掘ニ着手セリ」とあります。従って明治二十二年ころの鉱区図があれば、採掘創業の場所がわかるわけですね。

次に図1を見てみましょう。 幸いにしてこれは明治二十一年の硫黄山略図です。つまりこの地図の二号鉱区と三号鉱区から掘りはじめたことになりますね。ですから硫黄山の創業は、今のレストハウス側からではなく、反対側から掘りはじめたわけです。

そのころの採掘作業は、堅いところではツルハシで掘り起し、軟らかなところは唐鍬(とうぐわ)で硫黄を掘り、その砿石を十三貫五百匁の叺詰(かますづめ)にして、平地は馬の背で運び、嶮しい坂道ではに腕木と車輪をつけた橇車にのせて引き下ろしたということです。

また硫黄の精煉方法は、だら煮と言われる日本伝統のもので、土石で築いたかまどの上に、直径二尺、深さ二尺五寸の銑鉄(せんてつ)製の鍋釜を据え、これに硫黄鉱石を入れて薪の火で一時間から二時間煮つめ、溶解したものを直径四尺五寸、深さ二尺の汲釜に移し、灰や焼石などの軽いものは浮いてくるのでこれを取りのぞき、砂など重いものは沈下させたまま、 中間の硫黄分を別な桶に汲み込み、冬は一日、夏は一日半冷却させて、固まったものを桶から取り出し、更に沈滞した汚物を取り除いて製品にするという、原始的な精煉法でした。

なお、坑夫の生活は地上に直接床板を敷き、樹木の柱に草ぶきの掘立小屋(ほったてごや)屋に住み、食糧は交通不便のため魚などはなかな入手できず、また野菜類も耕作する者がいないので、山菜類を主としていたということですから、今では考えられないような悪い労働条件で、これは後に記述する鉄道開通のころまで改善されなかったようです。

しかし、労働賃金は一人一日の硫黄採掘量二石一斗余に対し、孫右衛門は当初六十銭を支払い、後に五十銭の日当に下げていますが、それでも後の経営者が更に四十銭・三十五銭と値下げしたことに比べれば、孫右衛門は比較的高賃金を支払っていたということができます。

参考
長さ・重さの比較
一尺は0.303メートル
一間は六尺で1.818メートル
一町は六〇間で109メートル
一里は三六町で3.93キロメートル
一匁(もんめ)は3.75グラム
一貫は千匁で3.75キログラム
一斗は升で18リットル
一石は十斗で180.4リットル
一坪は3.3平方メートル
(今後の参考にもお使いください)