概要
「てしかが郷土研究会」は、弟子屈町の歴史・民俗・考古・地理・自然などの調査研究を通じ、地域文化の振興を図ることを目的とした団体です。
弟子屈町観光文化センター内に拠点を持ち、毎月1回第4水曜日に例会を開催しています。
沿革
1986年 弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会を設立
その後、てしかが郷土研究会に改称
設立の経緯
当会は、昭和61(1986)年10月9日に設立されています。当初の会の名称は「弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会」でありました。
設立時の趣意書には、
弟子屈町は、湖沼、原生林、火山と自然環境に恵まれた道東の中央に位置し、その歴史も先史時代からアイヌのチャシの時代、さらには明治年間に始まる開拓の時代をへて今日に至っています。
その間、今私たちは古い写真や文献と家庭の物置等に眠る古き生活の品々でしか想像できないのですが、どの時代においても真剣に生きることを糧とした血と汗と苦闘の歴史の上に我が郷土「てしかが」があることを信じてやみません。
今、やがて十数年後郷土百年を迎えるにあたり、これら多くの貴重な先駆者の残してくれた開拓の資料、生活の資料は、単に過去のものとしての価値ではなく過去を学ぶことによって未来につながることを学ぶ重要な性格をもっています。
そのような意味から郷土百年記念館の早期実現に向けて、私たち町民一人ひとりがボランティア精神により資料を集め、一般町民に見てもらい、壊れているものは補修し、会員相互がアイデアを出や技術を出しあって郷土に対する理解を深めてゆこうとするものです。
どうかこの機会を期に一人でも多くの町の人の参加を得ながら活動の輪を広げ、文化の香り高い町づくりをめざしてゆきたいと考えます。弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える準備会 代表 細川音治
(弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会設立総会 昭和61(1986)年10月9日総会資料から)
と書かれています。
これ以降、設立趣旨を目標にして明治36(1903)年に弟子屈外一村戸長役場が設置されてから平成15(2003)年に100年を迎えることを記念した、先人たちの足跡を展示することができる施設建設を目指して活動をつづけました。
昭和61(1989)年から「今、この瞬間にも弟子屈の街から失われていく郷土資料を収集しよう!」と活動を始めましたが、その資料の収蔵する場所は民間人所有の倉庫を借りてでした。町へお願いをして、𫟰別地区にあった旧老人ホーム倖和園の一部が借りられることとなり、そこへ収蔵・展示を行いました。町民から我々の活動に賛同の声も聞くようにもなってきましたが、建物構造が老朽化していることや人を常駐させるには資金面で不可能なことから常設展示はできませんでした。
「弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会」から「てしかが郷土研究会」
永田洋平氏等が結成していた「弟子屈郷土史研究会」は、主要なメンバーが転勤などで活動が休止していました。氏の計らいで「弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会」がその名称を引き継ぐことが許され、会の名称を「てしかが郷土研究会」としました。
会の名称に「史」が入っていないのは、人の歴史だけのことではなく自然環境の歴史も共に研究していこう、との想いでした。また、「てしかが」とひらがなにしたのは、幾度となく町名変更(弟子屈町が読みづらいことから摩周町へ)が議論され否定されてきたことから、町名の由来となったところが、アイヌの人たちのコタンがあった場所で「テシ・カ・ガ」と名付けられていたところであり、弟子屈が読みづらいのであればひらがなでもいいのではないか、とのことからでした。
弟子屈町郷土資料収蔵庫「てしかがの蔵」
𫟰別地区にあった旧老人ホーム倖和園の一部に収蔵・展示を行えるようにし、収蔵しきれない資料は町の斡旋で民間や町の施設などに分散保管をしていましたが、相手方の事情で資料の移動が度々繰り返さなくてはならない状態が続きました。そのたびに移動に要する労力や資金の持ち出しがあり、資料は破損や所在不明が続きました。
平成18(2006)年、旧弟子屈営林署の敷地半分と建物を弟子屈町郷土資料収蔵庫に使用することで町が購入し「てしかがの蔵」となり、当会の資料を移設して、この施設の維持、資料の整理等を弟子屈町から委託を受けて管理をすることになりました。このほかに収蔵しきれない大型の農業関連資料は別途倉庫に保管していて、何れかのときには展示することも考えていました。
この「てしかがの蔵」の建物も元々は事務所用の構造で不特定多数の人たちを収容する、あるいは重量物を収蔵する構造の施設ではないことから、管理者を配置した常設展示の施設ではありませんでした。また、町民や観光客等から入館料をいただいて見学させるような施設内容でもない、あくまでも弟子屈町に住む人たちが、先人の辛苦の過程とその中でも逞しく楽しく生きてきた証を記憶し、未来の弟子屈のために今何をしなければならないか考える施設として運営してきました。
その後、平成23(2011)年には、「てしかがの蔵事務所」の老朽化した部分を改修し、摩周観光文化センターにあった「種市佐改-旅と観光のコレクション」資料を移設し、その一部を展示することになり、「旅と観光」に関係する分野が加わることによって「てしかがの蔵」として資料の幅が広がりました。
郷土資料の収集は、保管場所、展示場所の容量の関係、加えて主要な資料の収集はできたものと判断して収集範囲を限定していました。これまでは資料を収集することに主眼をおいていたこいとから資料の分類整理、記録は進んでいませんでした。
新たな展開へ
令和元(2019)年に「中心市街地再構築全体構想(図書館・プール・公衆浴場の機能を持つ複合施設)」が構想され、令和3(2021)年に具体的な計画となって「てしかがの蔵」の敷地が正式に事業の候補地となりました。このことによって「てしかがの蔵」の資料を移動しなくてはならなくなり、「てしかが郷土研究会」が所蔵する資料を町に譲渡することとしました。資料の移動先は、摩周観光文化センター内の「更科源藏文学資料館」に一部が移設展示され、その他の資料は新たに確保した2か所の保管庫へ移動しました。この一連の流れから「てしかが郷土研究会」の活動する場所、資料・史料がなくなったことになります。
当会の当初の目的と意図とする展示・収蔵する施設建設は達成されていませんが、これは将来へ向けて継続して要望してくことにし、会の設立時からの「資料の収集」はある程度達成されたこと、資料の譲渡が決まったことで、当会の活動が停滞することが懸念され、新たな展開をしていかなければならない段階になってきました。そこで令和4(2022)年11月に諸般の事情でしばらく開催されていなかった総会を開催し、会の目的を
「弟子屈町及び周辺地域の歴史・産業・文化・文学・自然等に関する資料・史料の収集・保存、活用、調査研究、提案、助言に関する事業を行う」
ことに会則を変更し役員の改選も行いました。
令和5(2023)年3月に「更科源藏文学資料館」・「種市佐改・旅と観光のコレクション」・「てしかがの蔵」の資料を統合した「弟子屈町複合展示施設ふるさと歴史館の設置及び管理に関する条例」が制定され、「ふるさと歴史館」に4月から職員が配置されることになりました。6月には「ふるさと歴史館」の改修費予算が成立し、事務所(受付)スペース、作業スペースが設けられるようになり、このうちの作業スペースを使用して「てしかが郷土研究会」が活動することができるようになります。
改正された当会の目的達成のための活動は、ここをベースに「ふるさと歴史館」が主導する事業と協同して活動することになります。併せて会としての独自の活動で町民をはじめ多くの人たちから賛同を得られるようにしていかなくてはならないことは、設立趣意書の「一人でも多くの町の人の参加を得ながら活動の輪を広げ、文化の香り高い町づくりをめざしてゆきたい」との思いは今後も何ら変わりはありません。
(文責:松橋秀和)
役員
理事(会長)
理事(事務長)
理事
監事
監事
松橋秀和
平塚一明
山本正裕
安藤 心
荻野峻宏
令和7年(2025年)現在
規約
活動拠点
北海道川上郡弟子屈町摩周3−3−1
釧路圏摩周観光文化センター内
弟子屈町複合施設てしかが歴史館2階
弟子屈町の概要
北海道の東部に位置していて、摩周湖、屈斜路湖の二つの湖とアトサヌプリ活火山を有し、大半が「阿寒摩周国立公園」の町です。人口は約6千人で農業と観光が基幹産業です。
弟子屈町の名前の由来

アイヌ語を直訳すると、テシ=簗(ヤナ)、カ=上 カ=上 これを読み解くと、釧路川の川底の岩盤が簗のように折り重なっているところ、となり、そこに一時留まる魚を獲ることができる場所で、アイヌの人たちの集落がありました。 1895(明治28)年に「植民区画選定」が行われ、熊牛、弟子屈、美留和、跡佐登の四原野に名が付されて、「テシカガ」も漢字の「弟子屈」が付けられました。 松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」に「テシカゝ」が記されています。弟子屈が地名として認知された最初と思われます。
弟子屈町の歴史
1858(安政5)年、松浦武四郎が蝦夷地内陸部を探検した時の『久摺日誌』、『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』には、テシカガとクッシャロにコタン(集落)があることが記されています。
明治になり、アトサヌプリで硫黄がとれることを大和民族(和人)が知り、1877(明治10)年から硫黄採掘が始まります。硫黄鉱石の運搬に北海道で2番目の鉄道が敷設されるなど硫黄採掘は本格的になりますが、明治29年には硫黄をほとんど採掘され休山となります。
一方、1886(明治18)年に硫黄鉱山に行き来する人を当て込んだ温泉宿が開かれ和人の定住が始まります。明治23年に本州から和人の農業移住者が表れ始め、1897(明治30)年には町の大半が御料地に編入され、集団移民による農業開拓が始められて市街地が形成されてきました。
弟子屈町の花・木・鳥
町の木・花・鳥については、昭和61年12月に広報てしかがで町民向けに募集。また、町内各小中学校および官公庁、各種団体に応募依頼を行い、応募総数613件の中から、総合開発審議会、学識経験者の審議の結果決定し制定されました。(弟子屈町公式ホームページより)
町の花:ツツジ
町の木:サクラ
町の鳥:白鳥
硫黄山のイソツツジに代表されることから制定。
町内各所で広く親しまれていることから制定。
屈斜路湖、釧路川で町民と厳しい冬をともに過ごしていることから制定。



