昭和53年10月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈の言葉(方言)」

日本の本州地方には、現代でもその地方地方に強い「なまり」や「辯」というものが残っているが、北海道にはほとんどそれがない。
弟子屈の町も当初、新潟や富山・福島・静岡といった地方から多くの開拓移民が入ってきて、その部落内では、いわゆる・「お国なまり」が強かったが、それも時代が進むにつれて薄れていった。つまり一世の時代には故郷の言葉を使うことによって故郷を懐かしく思う心が強く働いていたが、そこで生れた二世以後の人たちにはそれがなくなったのである。学校や集会場でそれぞれの出身県の人たちが交わったが、言葉だけはどちらの県にもかたよらずにならされていったのであるが、これが日本の標準語であるとはいえない。「なまり」はなくなったが、いわゆる北海道語といわれる本州のどの地方にもない「こわい」(だるい)とか「市街」(まち)とか「しばれる」(凍る)とか「そったらこと」(そのようなこと)といった語が日常用語としてまだ多く使われているからだ。今日では「どってんこいた」(びっくりした)とか「ごっぺかえした」(失敗した)という言葉はさすがに少なくなったが、こういう言葉も全く消えてしまった訳ではない。しかし静岡辯や富山・新潟辯はもはやこの町ではきけない。

昭和53年8月掲載 町史ーロメモ

「釧路川に流れ出る川」

熊牛原野
・秋田川(あきたがわ) 原名オンネナイ(大きい川) 秋田県から入った開拓者出身県の名をとってつけたといわれる。
・モツウイナイ。 アイヌ語。小さな決潰する沢の意。
・チトッパナイ。 アイヌ語。我らが目印をつけたー川。
・ツウソツナイ。 アイヌ語。蛇の多くいる沢。
・アツシナイ。 アイヌ語。楡の生えている沢。
・クマウシナイ。 アイヌ語。魚を獲って乾すところの川。熊牛の名はここから出た。(三十三線のところ。)
・テイベツ。 現在佐々木割箸工場のあるところを流れていた小川。
・エバクシュナイ。 平和の森田荘二代所有地の北を流れていた小川。
・ウタコマナイ。 元横田助作牧場の北側を流れていた小川。
・磯分内川。 原名インポウンナイ。(兎のいる沢)
以上川の名終り。

昭和53年7月掲載 町史ーロメモ

「釧路川に流れ出る川」

仁多
・仁多川 (にたがわ)アイヌ語、ニタトロマップ。湿地のところにあるもの。仁多という字名はこの川の名をとってつけた。
・モセウシナイ。 元吉井澱粉工場のあった小川。 アイヌ語イラクサのある川、或はいつも草を刈るところの川。
・ヌタコマナイ。 アイヌ語ヌクプ(川の流れが曲りくねった内の地)カ(上)オマ(…に在る)ナイ(川)
・ライベツ。 ライ(死ぬ)ペッ(川)古川のこと。
・エサマンナイ。 アイヌ語。カワウソの川。廣本家と美濃家の間を流れる小川。
・エサマンナイビラ。 美濃家の裏手の崖。
・トマムオンネナイ。 アイヌ語。トマム(湿地)オンネ(…の内にある)ナイ(川)
・シケシルウシ。 アイヌ語。シケ(荷物)シル(こする)ウシ(所)荷物がひっかかって歩きにくい所。元川口家と吉井家の所有地の端を流れていた小川。昭和のはじめごろ釧路川に浸食され、なくなった。

昭和53年6月掲載 町史ーロメモ

「釧路川に流れ出る川」

・鐺別川(とうべつがわ)原名「ト・ペツ」雨が降ると直ちに川水が増えて倍になるという意味。
・奥春別川(おくしゅんべつがわ)原名「オ・クシ・ウン・ペ」山の向うにある川の意。鐺別川の支流。
・最栄利別川(もえりべつがわ)鐺別川の支流。原名不明。
・オテシカウシナイ沢。鐺別川の支流。阿寒横断道路に近い沢から鐺別川に注いでいる。原名、岩盤の上にいつもある川の意。
・シケレベンベツ沢。オテシカウシナイからさらに下流の鐺別川に流れ込んでいる川。キハダの実のある沢の意。
・ソーウスベツ沢。鐺別川の上流にある支流。原名、滝の多い川の意。
・トクシシウン沢。アイヌ語あめますのいる川の意。ソーウスベツの反対側から鐺別川に合流している。
以上いずれも鐺別川の支流であるが、いずれも沢の上流部が深く急なため雨が降ると短時間に水が親川に注ぐため鐺別川がはんらんするのである。
 大正九年に大洪水を起したときは橋が全部流され鐺別部落の板谷庄助さんの家が流された。

昭和53年5月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈町内を流れる川の名」

屈斜路湖にそそぐ川
・鯇川(あめますがわ)釧網本線川湯ー緑間のトンネル附近の谷間から流れ出ている。昔からアメマスの多い川として知られてきた。
・ウランコシ川。アイヌ語。桂の多い川。津別峠の東側の谷を縫って湖の南西に流れこんでいる。
・尾札部川 (おさっぺがわ)阿寒ペンケ沼の東側の台地から屈斜路湖和琴半島の約一キロ弟子屈寄りの道路を横切って湖に注いでいる。「オサッペ」尻の乾く川の意。
・オンネナイ。藻琴山の南側の谷間を流れている小川。アイヌ語。老いた川の意。
・シケレベンベツ川。津別峠の東側の谷を下って湖に注いでいる。アイヌ語。キハダの実のある川。
・トイコイル。サマツカリヌプリから湖に注いでいる。アイヌ語。土波川の意。
・トコタンカレナイル。小清水町から屈斜路湖に注ぐ小川。
・釧路川。道東地方で風連川、標津川とならんで最も大きな川。延長一三八キロ。語原は「クスリ」から出たともいわれるが不明。

昭和53年4月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈町内の地名とその語原」

川湯温泉
ここはもとセセク・ペツ(熱い川)という川が流れていた。その名をとって「湯の川」とはじめ名付けられたが、同名の「湯の川」が函館にあるところから「川湯」と名命された。
・ポンポン山 アイヌ語でボッケ、コツ(沸騰する沢)と呼ばれたサワンチサップ山の西側の沢の中にある。強く踏みつけると、ポンポンひびくところからポンポン山と呼ばれたが、四季を通じて熱気がただよいカナヘビや昆虫のマダラスズが活動して、冬眠することがない。

摩周湖附近沿線
・摩周湖 この湖はもとアイヌから「ト」またはカムイト(神の湖)と呼ばれた。いつ摩周湖と呼ばれたかもその語原も不明である。
・摩周岳 アイヌ語、カムイヌプリ(神の山)今を去る四・五百年前まではまだ噴煙をあげていた。
・中島 アイヌ語、カムイシュマ(神の老婆)水面下二百三〇メートル水面上二十五メートルの独立溶岩円頂丘。摩周湖及摩周岳(摩周火山)は屈斜路火山のうちもっとも後期にできた火山である。

昭和53年3月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈町内の地名とその語原」

・コトニヌプリ アイヌ語(岩棚のある山)
・美幌峠アイヌ話、ピポロペツ(石の多い川)その川の名からとってつけた町の名をそのまま峠の名にした。

屈斜路~川湯間
・屈斜路古丹 アイヌ語、クッチャロ(のど)釧路川出口のところにあるコタン。
・オブタテシケ山 (槍の肩のそれた山)位説の山。コタンの裏山。
・藻琴山 昔はト・エトク・ウシ・ペ(湖の奥にいるもの)と呼ばれた山。近年になって藻琴の名からとってつけられた。
・トサモシベ山 アイヌ語(そのそばに立っているもの)。池の湯の裏山。
・池の湯ここはもとはアイヌ語でノール(湯の湧りてるところ)またはチカプセセッカ(鳥の温泉)と呼ばれていた。
・仁伏 アイヌ語、ニプシ(木がはねる)
・マクワンケサップ(アイヌ語、後方にある岩山)
・サワンチサップ(アイヌ語、前方にある岩山)
・アトサヌプリ(アイヌ語、はだかの山(硫黄山)

昭和53年2月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈町内の地名とその語原」

弟子屈ー美幌峠(国道二四三号・黒百合国道沿)
・美羅尾山(びらおざん)アイヌ語。ピラオロ。崖のあるところの意。(大沢のところ)その名をとって山の名にした。
・札友内(さっともない)アイヌ語。サリトモナイ。湿地の中にある川の意。
・ヌプリオンド。アイヌ語。山の裾、または山のきれめ。
・ポント。アイヌ語。小さな沼。
・オサッペ。アイヌ語。川尻が乾く。下流に水の酒れるところができる。尾札辺川の出口附近。
・和琴。アイヌ語。ワコッチ。魚の尾のつけ根のくびれたところ。和琴半島の基部(土産店の裏。温泉の湧出しているあたり。大正時代大町桂月がここを探勝したときアイヌ語のワコッチから和琴と命名した。
・ウランコシ川。桂の生えているところの川。
・サマツケヌプリ。アイヌ語。横になっている山という意。
・ サマツカリヌプリ。アイヌ語。浜手(湖岸)の奥をまわっている山の意。屈斜路火山の外輪山。

昭和53年1月掲載 町史ーロメモ

「弟子屈の駅名」

<弟子屈駅>
アイヌ語、「テシカカ」の名をそのままとって名付けた。(昭和四年八月十五日開業)もともとこの名は、現在の丸米旅舘の裏を流れる釧路川の岩盤のあるところから出たが、この附近は川床といわず堅い岩場で、魚を獲るためのヤナの杭も打てなかったところであった。

<美留和駅>
アイヌ語「ペル・ワアンペツ」から出た名を駅名にした。
泉のある川という意味だが、その場所は今の水産試験場美留和孵化場のあるところである。

<川湯駅>
はじめに湯川とつけられたが函舘の湯の川とまぎらわしかったので間もなく川湯と名付けられた。もともとこのあたりはアトサヌプリと呼ばれていたところであった。

<南弟子屈駅>
このあたりはもとクマウシ(魚を獲って乾すところ)と呼ばれていたが、釧綱線が開通したとき、弟子屈の南にあたるので南弟子屈と名付けられた。

昭和52年12月掲載 ミニ町史

「澱粉工場」

この弟子屈町に最初の澱粉製造機(手廻し)を入れたのは仁多の吉井興助氏。(明治三十五年)次いで下鐺別の釧路川ベリ(桐木さんのところ)で釧路市の田中氏が三十七年に工場をつくり、これを福島兵間氏が経営し、次第に奥地に及んでいき、いわゆる食糧難時代と呼ばれた太平洋戦末期に全盛に達し、戦後二十五年頃から次第に減りはじめ、現在では下鐺別に一ヶ所の工場を残すだけとなった。

澱粉は、紅丸、農林一号で四~四・五俵で一袋製粉できたが、いわゆる賃擦りには金の払えない人には更に二俵の馬鈴薯をつけさせた。それで当時反収八俵ほどしかとれない高台農家の人たちは、種いも二俵(反当)を残こせば、食糧にもこと欠くとあって、満足に澱粉団子さえ食えなかった。

澱粉工場は十月ごろから十二月にかけてフルに動力の水車をまわしたが、このころになると、どこの農家でも博打焼 (ばくちやき)、というのを食った。水のたっぷりしみた乾燥前の澱粉を火に投げ込んで、焼けたところからはがして食うところからそういう名が出たのである。

昭和52年11月掲載 ミニ町史

「電信・電話の架設」

弟子屈市街に電話が架設されたのは昭和四年四月から(宮越喜市氏)。ただしその当時は役場や帝室林野局、御料局出張所、日通、土沼旅館、本山旅館、国鉄弟子屈駅(四年八月十五日)などで、市街各戸にいきわたったのは昭和七年十二月、電報電信の架設は十一年四月である。
なお川湯市街は昭和九年。屈斜路局 (金田才次郎氏)が十三年八月二十三日。美留和局 (竜田甚三氏)は太平洋戦争直前の十六年十月に設置をみた。

「労働賃金」

自由労務者の賃金は大正八年頃は一日三円五十銭前後だったが昭和六年頃には七十銭ー一円二十銭にさがった。これは前者は第一次世界大戦で日本が戦勝国で景気がよかったためだが、後者は世界的な経済不況でデフレ現象が吹きあれていたためである。この頃は飯場賃(宿泊費)が四十銭で出面取(でめんとり)はどんなに稼いでも一日十五銭以上残せなかったし、弟子屈一釧路間の片道運賃(一円五十銭)を稼ぐのに十日以上もかかった。親の死目にも会えなかったのはそのためである。

昭和52年10月掲載 ミニ町史

「摩周道路」

弟子屈から摩周湖第一展望台に至る観光道路は、大正時代には現在の駅裏からTV中継所のある丘の下を経て元拓殖実習場跡地の南側と美留和駅裏から通じる二筋の細道があっただけで、背丈を超えるクマエザサとヤマハギの中を年に数人が通るだけのものであったが、昭和四年の十月になってようやく馬車の通れるほどの道路に改良され、その年の十二月二十日に完成した。しかしこの道路をバスが通ったのは昭和九年国立公園が開園された翌年の夏で、その頃は第一展望台までバスが行きつくのに二度も三度も車のエンジンがオーバーヒートし、その度に一時間以上も客が車外で待たされ、蚊やアブになやまされ、中には途中であいそをつかした客が歩いて弟子屈まで帰ったことさえあった。

昭和52年8月掲載 ミニ町史

「弟子屈農協の創立」

昭和六年八月十五日弟子屈酪農組合が二十九名の牛乳生産者によって組織され、それが法人化され昭和八年に農事実行組合となり、それを母体に全農家による産業組合が出来る。事実上この時期に現在の弟子屈の主畜酪農の基礎が出来上った。

当時の事務所は、役場の片隅にあったが、昭和十一年、現在の農協倉庫敷地に移り、戦後二十三年八月十四日弟子屈主畜農業協同組合として発足した。初代組合長は熊田兼雄氏、このときの組合員八百二名、出資金百三十七万円、貯金千三百五十万円。

昭和52年7月掲載 ミニ町史

「牛乳のはじまり」

明治三十五年、横田元一郎氏が自家の牛の乳からしぼったものを御料官舎や市街の希望者に配達、分け売りしたのが弟子屈の牛乳の最初のものだが、四十年には佐々木藤吉氏が羽衣号から搾乳して一合いくらで分け売り(一合約三十銭)した。

「観光協会の発足」

昭和二十五年六月土沼助吉氏を会長に、根津文男氏を副会長に、弟子屈観光協会の発足がきまり、七月運営を軌道に乗せた。なお川湯観光協会は、二十七年根津文男氏を会長に選任独立し、以後戦後のはなばなしい観光競争の幕をあけた。

昭和52年6月掲載 ミニ町史

「弟子屈昭和初期の物価(昭和二~五年)」

米一俵(六〇kg) 八円〜八・五円
みそ一貫(三・七五kg) 五〇円
醤油一升 四〇〜六〇銭
灯油一升 四五銭
砂糖一升(白) 一八銭

この時期に北見産の米は一俵七円で後の中に杯が入っていたところがら杯米(さかずきまい)と呼ばれていた。ところが昭和六年から三年続いて起った冷害凶作で物価がさがり、米一俵五・五円から六円、酒一升(一・五円)買うと白米一升の景品がつく有様だった。

昭和52年3月掲載 ミニ町史

「仁多の補助移民」

昭和六年三月二十三日下仁多の高台から摩周山麓の上仁多の原野にかけて三十七戸の移民が静岡県から入植した。あだかも昭和初期の日本の政治と経済が最大のピンチに見舞われた時期で、それらの人たちはいずれもその社会不安と焦燥の中から新天地を求めてきた人たちであった。

しかしこの移民には二つの大きな特色があった。前者は(下仁多)紡績会社の職工たちの集団であり、後者(上仁多)は大方が静岡山地の小作農の二三男坊であり、それは百性の経験、未経験の差というより精神的にもはるかに開拓者に必要な耐久力に差があり過ぎた。つまり後者の大半は入植以来四十数年を経ていまだ健在であるのに反して、前者はほとんど数戸を残すだけで脱落離農してしまった。

この地が火山灰、泥炭、寒冷といった厳しく特異な気候、風土によるとはいえ、農家という家族ぐるみの職業が、不屈の開拓精神を抜きに成功し得ないという見本をこの仁多の補助移民が北方開拓史の中で示したもっともよい例となった。

昭和52年2月掲載 ミニ町史

「スキーの始まり」

スキーという便利な雪の上の乗物が、庶民の間に流行したのは、そう遠い昔のことではない。

弟子屈では、大正四年の始めに小田切悌二氏が、札幌から買い求めてきたのが最初のものである。このスキーはアルペンスキーで、カンジキしかなかった当時にしては、ハイカラなスキーであったが、ストックは二米もある一本杖で、先の方には流送トビのような剣先がついていた。その当時は札幌のスキー競技でも、このスキーで一米をジャンプしたといって驚いていた時代で、まさに隔世の感がある。スキーを二本の杖で操作するようになったのは、ノルディックになってからで、それも大正の未頃になってからのことである。

昭和51年12月掲載 ミニ町史

「昭和九年十二月四日阿寒国立公園開園する」

阿寒国立公園が最初の候補地に指定されたのは、大正十年・第四十四議会で「明治記念日本大公園国立の請願」が採択された年のことである。
しかしこの時採択された全国十六ケ所のうちに入った国立公園予定地というのは、阿寒湖を中心とする国立公園で、摩周湖や屈斜路湖は含まれていなかった。

これらの地域が後に阿寒国立公園に編入されるに至ったのは、我が国、林学界の権威田村剛、新島両博士等の紹介の労によるところが多いが、一方では土木の永山在兼、営林担当官近藤直人といった人達の横断道路建設が、直接的にはもっとも大きな貢献を果した。

これによって阿寒と弟子屈が結ばれ摩周、屈斜路両湖がこの公園”に編入されるに至ったが、当時弟子屈村長として在任中の青木貞行氏の超人的な行政力に負うところも大きかった。

昭和51年11月掲載 ミニ町史

明治十九年札幌に北海道庁が置かれた(一月二十六日)その翌二十年四月、硫黄山から標茶に至る釧路鉄道(俗に硫黄山鉄道)のエ事が始められ、翌二十一年五月に完成したが、その二年後の二十三年十一月に硫黄山から網走に至る釧北道路が竣工した。

この二つの大きな建設工事によって、釧路ー弟子屈ー網走を結ぶルートが完成し、以後の弟子屈の発展に大きな役割を果した。

ただ忘れてならないことは、この一連の建設に伴って標茶集治監(十八年十一月設置)の囚人三百人が動員され、折から硫黄山の流黄採堀事業(安田)とも重り、その半数が栄養失調や眼疾にたおれ、百数十名の人命が過酷な強制労働の犠牲となったことである。

ちなみに硫黄山鉄道の工事(土エ)は四ヶ月、釧北道路の工事は着工後三ヶ月で完成といったおどろくべき突貫工事であった。

昭和51年10月掲載 ミニ町史

「弟子屈村の独立」

明治三十六年十月七日専任の戸長の中西幾太郎氏が着任し、名実共に弟子屈村が独立した村政をもった。

その年の八月十五日に態牛村外四村戸長役場(田口清廉氏昇任)から分離して開村したとはいえ専任の戸長によって村政をとりしきったのはこれが初めてであった。

吏員は西沢政次郎氏と金刺三郎氏の二人だけで、本山七右衛門氏の菜種油を製造した、油小屋の中に設けた一室が当時の庁舎というもので、財産も分村時標茶村から貰った軍事公債二百円、備荒基本金二百七十七円余の郵便貯金と現金十三円四十四銭二厘、それに二千坪の墓地と木挽小屋を改築した弟子屈簡易教育所一棟、(現在の中野呉服店裏)それだけが、この村の独立時の全財産であった。

注、田口清廉氏は態牛村外二戸村兼任であった。

昭和51年9月掲載 ミニ町史

「弟子屈神社と獅子舞」

明治二十五年、現在の弟子屈駅土場附近に豊川稲荷が柳沼万之助氏によって建てられたが、三十四年に新市街の筏井氏裏の高台に移され、その後四年を経た三十七年に現在地に安置された。

当別の獅子舞はその年、仁多の獅子舞はその翌年はじめて神社祭札(九月)に奉納されたが、その当時はまだ獅子頭は小筆、胴は遊といった代用で富山地方からの開拓者が、故郷をしのぶためのものであった。

最初の馬車
明治二十九年九月頃、熊牛原野に亜麻会社がはじまると同時に入ってきた。

車輪が一寸という細くきゃしゃなつくりは、大きな荷物を運ぶには適しなかった。それをひいた馬も俗にポンコと呼ばれる道産馬であった。

昭和51年8月掲載 ミニ町史

「釧網線釧路弟子屈間開通」

釧網線釧路弟子屈間が昭和四年八月十五日開通、翌年六月開通した阿寒横断道路と共に名実共に弟子屈町発展の土台骨を完成した。

ちなみに弟子屈駅開業時の釧路弟子屈間の旅客運賃は三等片道一円十四銭であった。

太平洋戦争終る
昭和六年満州事変ぼっ発以来十五年続いた永く苦しい戦いが二十年八月十五日終った。

天皇の終戦の詔勅が声になってラジオから流れたのは朝だったが特攻攻撃はまだ続いており、誰もが戦に敗れたのを信じなかった。

弟子屈でも、その頃はまだ、女子青年の多くが針葉油を採取に川湯の国有林に入っており、一部の青年たちは弟子屈小学校校庭で竹槍の訓練に熱中していた。

折から召集されて、弟子屈の青壮年者の多数が所属していた旭川の熊部隊は、千島或は釧路から大楽毛の海岸線に展開し、敵の上陸に備えているさ中であった。

昭和51年7月掲載 ミニ町史

弟子屈町町制施行
弟子屈住民待望の町制が昭和二十二年七月一日認可、同月十六日盛大に祝賀会が行われた。明治三十六年開村以来四十七年目、143戸611人の一寒村から2,034戸、10,001人の夢多き観光の町に発展した。初代町長佐藤惣五郎氏

小田切栄三郎翁死去
町農業開拓の父、 小田切栄三郎翁昭和十三年七月十二日札幌で没す、同月二十五日その追悼会が弟子屈小学校屋体で盛大に行われた。

町上空にグラマン飛来
終戦直前の昭和二十年七月十四日早朝太平洋上の空母から飛びたった米艦載機釧路を空襲、焼夷弾、 小型爆弾、機銃掃射により甚大な被害を与えたが、このうちの二機が弟子屈に飛来、その帰途磯分内製糖工場を襲撃した。しかし弟子屈町に被害はなかった。