
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(7)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
観光苦難の時代へ
昭和九年十二月に念願の国立公園が誕生しましたが、間もな支那事変そして第二次世界大戦へと暗黒の時代に突入していき、まだまだ体質の弱い観光基盤がもろにその影響を受け、苦難の道をたどることになりました。
観光客の入込み数の推移を見ると、それは歴然とします。
昭和十年一四九、八二五人
同十一年一六七、五一七人
同十二年一二八、二〇六人
同十三年一〇九、〇五二人
同十四年一三二、八一五人
このように、昭和十一年をピークとして支那事変の始まった昭和十二年から減少傾向を見せ、昭和十三年には「観光報国週間」が実施され、早くも戦時色をおびていきます。
しかし、戦時下の波に抗するような努力もなかったわけではありません。
昭和十一年には阿寒国立公園観光協会で、八色刷りのパンフレット「阿寒」第一版五千部を発行しています。
これは、釧路市役所野坂氏と運輸事務所大島氏両氏の共同企画、佐々木栄松氏作によるもので、現在でも充分に通用するすばらしい内容です。
同年、札鉄ではB列六番六十一ページの「北海道案内」を発行しており、この二種類の冊子大戦の始まる昭和十六年まで継続して発行されました。一方、国立公園指定前後には弟子屈に近水ホテル(グランドホテルの前身)と長生閣の二つの大きな旅館が建てられ、道路も昭和十三年には川湯から摩周への観光道路の建設計画が樹立され、強力な推進運動が展開されますが、昭和十四年釧路〜十勝産業道路優先の措置が取られ、戦後まで持ち越されました。
また、第一回藻琴山開きが行われたのは昭和十三年のこと、十五年には釧路スキー連盟川湯支部の手で造林小屋をヒュッテに改造しています。 また美羅尾山に回転コースを作ったのも昭和十五年のころです。
釧路市観光協会が阿寒国立公園観光協会から分離して独自の活動を始めたのもこのころで、昭和十三年に創立総会を開催し岩下良治理事長を中心に、釧路駅前観光案内所の設置、サービス講習会の開催、観光コースの設定等々の事業について積極的な展開を図っています。
阿寒湖で熊の木彫りが始まったのは昭和十年ころで、昭和十二年からは釧路市の肝いりで、郷土観光みやげ品改善の講習会が三年連続して行われ、東京美術学校から講師を招いて開催されるなど相当な力の入れようだったようです。
また、交通公社の前身でジャパン・ツーリスト ・ビューローの派出所設置も昭和十七年に検討され、設置場所も丸三鶴屋にほぼ決定し観光振興に明るいきざしが見えたのですが、やはり戦争の波に流されてしまいました。
こうした中で、山本多助氏の著「阿寒国立公園とアイヌの伝説」がジャパン・ツーリスト・ビューローによって全国出版されたのは何よりもヒットでした。
これはB列五番約百ページのもので、昭和十五年石坂洋次郎編「東北温泉風土記」などのシリーズ出版されたものです。このように、暗黒の時代へと移行する中でも、多くの人々の力によって国立公園と観光との接点を作り上げ、新しい産業の推進に努力をしていました。
舌辛村から阿寒村へ
阿寒国立公園が誕生して三年後、当時舌辛村であった現在の阿寒町は阿寒村に村名を変更し、国立公園名と村名を一致させ、その存在を内外に明らかにしていきました。
「阿寒町史」中「第九編観光・第四節 鶴居分村と”舌辛”から”阿寒”へ」には、次のように記載されています。
「昭和十二年四月一日、鶴居村、分村が実現した。 昭和九年十二月、東部阿寒地方大会が中雪裡で開かれ、利便上の見地より分村の要望決議がなされた。
舌辛地域においても、何の異存もなく、翌年の一月に分村陳情書が申達され、これが決定をみたのです。これにより財産評価委員会が設けられ、舌辛村(母村)鶴居村(分村)の財産区分を決定した。
村名変更
昭和九年十二月、阿寒国立公園の誕生となり、以来皇族方の御来訪をはじめ道内はもちろん、道外客も年々増加するにつれ村名改称の声が高まり、昭和十二年五月十八日服部村長より北海道長官宛に村名変更の申請が出され、六月二日に認可になり、舌辛村から阿寒村となったのである。」
このように非常に短い文章でまとめられていますが、舌辛村の一部を鶴居村に分村し、さらに村名改称を実現させたことにより、「阿寒国立公園」=「阿寒村」というイメージの出発点となり、以降の公園名称変更運動に大きな影響を及ぼすこととなります。
皇族方のご来訪と文化人の往来
阿寒国立公園誕生前後には多くの皇族方のご来訪がありました。「阿寒町史」中「第九編観光・第三節 皇族方の御来訪」には、次のように紹介されています。
「・・・皇族で阿寒の地を最初に訪れられたのは、昭和七年の澄宮殿下である。殿下は七月二十一日に弟子屈を出発し、湖畔山浦旅館で昼食をとられた後、釧路に向かわれている。・・・・・・。
次いで昭和九年には、七月二十三日、九邇宮朝融王殿下が午後五時三五分、弟子屈を経て御来訪、雄阿寒ホテルに御到着、二十四日午後二時三〇分釧路に向かわれた。 梨本宮守正王殿下は弟子屈を経て阿寒に御到着、山浦旅館で昼食をとられ釧路に向かわれた。伏見宮尊英王殿下は九月二日釧路を経て十二時一○分雄阿寒ホテルに御到着、昼食後周遊され午後五時四五分釧路に帰られた。
昭和十一年朝香宮鳩彦殿下同妃殿下は九月二十四日午前九時釧路を御出発、午前一一時阿寒湖に御到着、雄阿寒ホテルに一泊なさり、翌二十五日弟子屈に向かわれている。昭和十一年東久邇宮稔彦王殿下は十月九日弟子屈より午後四時一五分雄阿寒ホテルに御到着、翌十日昼食後釧路に向かわれている。昭和十四朝香宮鳩彦王殿下湛子妃殿下は七月十一日川から正午に雄阿寒ホテルに御到着。阿寒湖周遊後釧路に向かわれる。同年照宮成子内親王殿下は弟子屈から七月二十二日雄阿寒ホテルに御到着。一泊され翌二十三日釧路に向かわれている。
皇族方の相次ぐ御来訪は、阿寒観光発展に大きく寄与されているのである。」
と詳細に記載されています。
このように多くの皇族方のご来訪は、自動車の発達と道路環境の整備、とりわけ阿寒横断道路の整備により、阿寒の遊覧が非常に便利になったことを物語っており、加えて「阿寒国立公園」の知名度を向上させたと同時に、皇族方のご来訪により道路がさらに整備されたことも事実のようです。
また、文化人の往来も多く大正十年から昭和十年の間には、文学界では大町桂月、小杉放庵、河田禎、林芙美子、佐藤惣之助、国府犀東、山下秀之助、高浜虚子。学者界からは新渡戸稲造。画家からは上野春香、上野山清貢。写真家からは岡田紅陽、山田応水。等々が「阿寒国立公園」を訪れています。
特に、大町桂月の全国レベルの阿寒の評価は、
「山水の湖水は、水清く、四面山に囲まれて、世にも清幽の趣を有するものなるが、日本にては、関東より奥羽、北海道へかけてのみ之を見る。箱根の芦の湖、日光の中禅寺湖、陸奥の十和田湖、 北海道の阿寒湖など是なり」
と阿寒湖第一級のものとしており、 全道レベルでは山に評価が現れ、北海道の中で
「余は茲に大雪山、層雲峡、阿寒岳、登別温泉、蝦夷富士、大沼公園、猿間湖、野付半島を以て、北海道の八大景勝となさむ」
と阿寒岳を取り上げています。
このように、阿寒の知名度の高揚と皇族方から文化人に至るまで、多くの人々が訪問することにより、「舌辛村」から「阿推寒国立公園」にちなんで「阿寒村」に改称する気運は更に拍車がかかり、日々当然高揚していったことでしょう。
また村民からは村名改称については全く異議がなかったのではないかと推察します。
改称運動の萌芽点?
一方、弟子屈村もこれを機会に村名や国立公園名改称の動きが全くなかったのでしょうか。
残念ながら文献や資料は見つかりませんでした。想像の域を脱することはできませんが、当時の弟子屈村民の立場からすると、少なからず動揺があったものと考えます。阿寒村の誕生は名称変更の萌芽点になったのではないかと推察するのは私だけでしょうか。
しかし大戦前夜という時代背景にあって、その思いはすっかり捨象されていったのではないか考えます。
