
※本記事は、1988年に『広報てしかが』に掲載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。
弟子屈町の開基
はじめに

早いもので、私が弟子屈町にお世話になってから、もう二年になります。しかし、新米町民として何のお役にも立たず心苦しく思っておりました。
このたび関係者の格別なおはからいで、この貴重な広報の紙面を利用させていただき、「弟子屈町むかしむか史」と題して、町内の歴史や昔話を連載させていただくことになりました。
しかし、私は歴史の専門家ではありませんし町民生活も浅いので、皆さんのお知恵をお借りしながら、できるだけやさしい文章で書き綴っていきたいと思っております。どうぞご協力ください。
また、この連載が何回続くかわかりませんが、以前釧路鉄道管理局の広報紙に八十回にわたって連載した経験がありますので、スペースのお借りできる限り継続し、町史補完の役目もつとめたいと考えておりますので、併せてご愛読もお願いいたします。
町の開基は明治三十六年
昨年十月、町内の有志が「弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会」を結成し、弟子屈町開拓の歴史を秘めた開拓器材、日用品、古書等の収集活動を積極的に実施しております。
そのためでしょうか、最近資料室に弟子屈町の開基について問い合わせの電話が多くなりましたので、第一回目として町の開基について掲載することとしました。
さて、市や町村の開基は何を基準にして定めるのでしょうか興味がありますね。釧路管内の十市町村を調べてみると、市町村役場(昔は戸長役場)が設置された年を開基と定めた町村が一番多く、弟子屈・標茶・阿寒等七町村もありました。
このため弟子屈町の場合は、明治三十六年(一九〇三年)今の標茶に置かれていた熊牛村外四村戸長役場から分村し、弟子屈村と屈斜路村とから成る「弟子屈外一村戸長役場」が設置された年を開基と定めています。
従って今年は弟子屈町開基八十四年であり、開基百年は西歴二〇〇三年ということになります。
また、戸長役場の設置より早く和人が定住した年をもって開基と定めている自治体もあります。釧路市の場合は、川湯硫黄山の開発を手がけたこともある佐野孫右エ門が、明治三年に一七四戸・六三七人の漁民を移住させた年を釧路市の開基としており、浜中町の場合もほぼ似たようなケースで開基を定めています。
釧路管内の歴史のルーツと言われる厚岸町の場合は特殊な例で、早くから松前後によりアッケシ場所が開かれていましたが、これを徳川幕府が返透させて直接統治するようになり、寛政十一年(一七九九年)幕府の官船政徳丸が厚岸に入港した日を厚岸町の開基と定めています。
開基以前の弟子屈
では弟子屈外一村戸長役場が開設される以前の弟子屈町内にはどんな歴史があったのでしょうか、簡単に見ておきましょう。
釧路川流域は先住民族の遺跡が数多くあり、道東の歴史の宝庫と言われるほどですが、その中の特に大切な九か所の遺跡を「釧路川流域チャシ跡群」として国指定史跡に指定し永久保存する予定ですが、その中に弟子屈町所在のチャシ跡が四か所も含まれており、古い歴史を物語っております。
残念ながらそのころの戸数や人口を知るすべはありませんが、次号に掲載予定の幕末の探検家松浦武四郎が、安政五年(一八五八年)町内を調査したときの記録「久摺日誌」に、テシカガ人家八軒・クッチヤロ(今の釧路川口)に人家二軒・川を東岸に越え(今のコタン)人家七軒という記述があります。
このように交通が不便で気候の厳しい昔の町内にも、釧路川を利用した人間のくらしがあったのです。従って弟子屈町開拓の先駆者はアイヌの人びとであると言ってよいでしょう。
弟子屈はもとより、釧路地方に近代を呼び込んだと言われる硫黄山の硫黄採掘がはじまったのは明治十年のことです。
山元には原始的ながら製錬所が設備され、明治十三年には当時としては珍しかった馬を四百頭も導入して、硫黄山から標茶町の瀬文平まで毎日三百頭の馬の背で硫黄を輸送し、瀬文平からは釧路川を利用し釧路港まで輸送をしました。
明治十八年には本山七右衛門氏が増路から一家をあげて移住し、和人による弟子屈定住者の第一号として温泉旅館(今の摩周パークホテル)の経営を開始し、標茶には釧路集治監(網走刑務所の前身)が設置され、多数囚人による道路の建設や硫黄の採掘作業などが開始されたので、村内も次第に活気をおびてきました。
百年前に運転した安田鉄道
釧路の佐野孫右エ門によって始められた硫黄の採掘は、やがてその経営権が山田慎を経て安田善次郎の手に渡ります。安田は富山県の出身者で、一代で安田財関(今の富士銀行系)を礎きあげた立志伝中の人物です。
安田は当時不賑であった硫黄鉱山の経営を改善するには、近代的な硫黄の精錬方法と、大量輸送を実施すべきであると判断し、明治二十年に硫黄山から仁多を経て標茶に至る鉄道を建設しました。
明治二十年と言えば今からちょうど百年前のことです。しかも、道内にはまだ小樽から札幌を経て幌内炭山に至る鉄道が一本しかありませんし、日本の大幹線と言われる東海道本線ですら全通していない鉄道の草創期なのです。こんな古い昔にわが町内を進善号・長安号と名付けられた二両のSLが、硫黄鉱石を積んだ貨車を引いてシュッポ・シュッポと走ったのですから愉快ではありませんか。
しかし、硫黄山の豊富な硫黄も明治十年以来の採鉱と、SLによる大量採掘・大量輸送によって資源を掘りつくし、せっかく敷設された鉄道も明治二十九年には廃止となり、一時的に栄えた弟子屈の村も急速に淋れました。
町の開基は農民の鍬
鉱山による繁栄は、最近問題になっている炭鉱の閉山と同様に、資源が乏しくなれば人も家も移転してしまう一時的な繁栄です。やはり町の開基にふさわしいものは、弟子屈の大地にしっかりと根をおろした農民の開墾と定住でなければなりません。
幸いなことに鉄道が廃止された翌明治三十年に、熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登の四原野の大部分二千万坪の土地が、御料局農地(皇室の財産)に指定され、帝室林野局札幌支庁川上出張所が弟子屈に置かれ、その管理指導のもとに町内の開拓が進められるようになったのです。
もちろんその以前に町内に入地した人はおります。その第一号は北海道を代表する文化人と言われた更科源蔵氏の厳父更科治郎さんですが、御料局の場合は事前に営農方法を研究し、明治三十二年の富山県移民五〇戸を仁多と当別に移住開墾させたのを初めとして、次つぎと計画的に移民を募集して村内に定住させたのでこのようにしてしっかりとした村の基盤ができてきた明治三十六年、さきに述べたとおり弟子屈外一村戸長役場が弟子屈に置かれるようになり、これが弟子屈町の開基となったのです。
弟子屈町史によれば、分村独立当時は弟子屈村一一八戸五〇四人、屈斜路村二五戸一一二人、総計一四三戸六一六人という小さな村だったということです。
