
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(10)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
国立公園の行方
昭和十二年七月日中戦争勃発以降、国立公園行政は大きく変貌することになります。
昭和十三年十一月に厚生省が設置され、国立公園行政担当は厚生省体力局施設課が所管となりました。
また昭和十六年三月には国立公園委員会が廃止され、同年八月には厚生省体力局が人口局と改称され、国立公園は体錬課が所管することとなりました。
昭和十八年五月には国立公園協会が国土健民会と改称しています。
そして、第二世界大戦終結の直前の昭和十九年一月には行政事務の簡素化の勅令により国立公園の許可制から届出制に変わり、同年二月決戦非常措置要綱の閣議決定を受け、七月ついに国立公園施行事務の停止となりました。
このように、戦争の激化に伴って国立公園行政も戦時色に吸収されてしまいました。
しかし昭和十七年四月厚生省は戦時体制にも関わらず、秩父大島天城・志摩・琵琶湖・金剛高野・英彦山耶渓の六国立公園候補地を定め、指定準備に着手するといった勢力的な足跡を残しています。
復興への道
二つの原爆の投下により打ちひしがれ、ついに大戦は昭和二十年八月十五日に終戦を迎えることとなりました。
国土の四割を失い、狭い国土に八千万人の国民がひしめきあうように生きていかなければなりませんでした。
資源も乏しく、戦災により各種の工場は破壊され、外貨投資の全部を喪失してしまった日本にとって、国の復興を進めるためには外貨を獲得することが第一でした。 その最短コースは外国人観光客の誘致が一番手近かな方法だったようです。
その終戦の翌年には早くもジャパン・ツーリスト・ビューロー(戦時中は東亜旅行社と改名していた)を財団法人日本交通公社に生まれ変わります。
これをきっかけに、観光事業は予想を遥かに上回るスピードで発展していきました。
その展開は次のことから明らかです。
昭和二十年十一月 鉄道総局旅客課観光係設置
同二十一年六月 運輸省に観光課設置
同同 全日本観光連盟設立
同二十一年八月 第九十議会で「観光国策確立に関する建議案」通過、観光立国を表明
同二十三年七月 観光事業審議会設置(三十八年には観光政策審議会と改称)
またGHQ(連合国総指令部)も次のような支援を講じています。
昭和二十二年八月 民間貿易再開バイヤーの来日開始
同二十二年十二月 一般外国人観光客の一時上陸の許可
同二十三年 バイヤーの滞在日数を六十日に拡大、一般外国人観光客の一人一七五ドルなど一定限度内での日本観光旅行を許可
同二十四年 一般外国人観光客の制限緩和
また、GHQでは国立公園や自然保護にも関心を示し、昭和二十一年九月には情報局美術記念係のウォルター・ボファム大尉は、「美しい日本の自然は子孫のために残すべきである。現在の食糧や電力事情によって、自然を破壊すべきでない。」と警告しています。
阿寒国立公園においても、昭和二十三年六月アメリカ内務省国立公園局C・Aリッチ氏を派遣しており、氏は石神厚生省国立公園部長とともに六月七日に弟子屈を訪れ、現地視察の結果「この素敵な公園を持った地元民はしあわせだ。この大自然の一木一草も折らないようにしてほしい。」とコメントし、厚生省に対して多種にわたるアドバイスをしたようです。
阿寒国立公園観光協会の創立
昭和二十一年四月主食は七十日余も欠配し、電灯はローソク送電、列車は買い出しと復員兵士で大混乱、こうした厳しい社会情勢の中で、北海道観光連盟が誕生します。
これを受けて、戦時中から有名無実となっていた阿寒国立公園観光協会を改組しようという動きがありましたが、中央の大勢に順応すべきであるということで、理事長吉島力氏(阿寒湖荘経営者)は京都の全日本観光連盟創立大会に出席しました。
このころ、日本交通公社が同社の事業拡大と道東地方観光事業指導のため、釧路に営業所を開設したいという意向を示し、直ちに釧鉄で場所の選定に乗り出したのですが、空襲のために適地である北大通りは空襲で大きなダメージを受けて苦慮していたようですが、結局は釧路市会役の斡旋もあって、昭和二十一年九月やっと北大通り十三丁目に落着き開店しました。
昭和二十一年十二月、交通公社初代所長浅井宗吉氏と、釧鉄の岩堀氏隆氏のコンビが音頭を取り、戦後初めての観光懇談会が開催されました。
この中で「今後の観光運動は阿寒と釧路を一本化して、早急に観光協会を作るべきである。」との方向が出され、協会設立へと進行して行きました。
昭和二十二年二月二十七日釧路商工会議所で、各界関係者を集めて会議が開催され、吉島力氏が座長で進行され、昭和八年に結成された「阿寒国立公園観光協会を解散すべし」との動議が出され、全会一致でこれを可決されました。同時に理事長であった吉島力氏、理事の土沼助吉氏と宇山久観氏の三氏に感謝状と記念品が贈呈され、続いて議長に尾崎釧路市議会議長を選出し、新阿寒国立公園観光協会の設立について諸議案が審議さ満場一致で全てを可決されました。
こうして再スタートした新阿寒国立公園観光協会の役員メンバーや当面の事業内容は次のとおりです。
・役員
会長 木村釧路国支庁長
副会長 中谷釧路市助役及び吉島力
理事 浅井日本交通公社所長外六名
幹事 岩堀釧鉄旅客係外二十名
顧問 阿寒、弟子屈、西足寄各町村長外十九名
・当面の事業内容
一、阿寒の冬山探査と冬の阿寒宣伝
一、阿寒国立公園相談所の開設
一、阿寒観光写真展、絵画展の開催
一、観光ガイドブック、絵葉書の作成
一、阿寒レークサイドホテル、釧路観光ホテル建設の促進
一、新観光ニュースの紹介
一、観光道路の整備運動展開
一、観光資源の愛護、景勝保存運動の実施
ここまでは至った経過の中では、交通公社浅井所長と鋼鉄の岩堀氏の名コンビによる綿密な計画と努力によるところが大きかったと考えます。
事務局は日本交通公社釧路営業所内に置かれましたが、戦前の釧路保勝会や阿寒国立公園期成同盟会という行政ベースのものと、初期阿寒国立公園観光協会の宣伝ベースのものとが合体した。新しい阿寒国立公園観光協会が創立されました。
各地観光協会の発足
阿寒国立公園観光協会の発足により観光再建への第一歩を踏み出すことになり、各地でも有志の努力により、観光協会設立の気運が高まっていきました。
一番最初に創立されたのは阿寒国立公園観光協会に所属していなかった美幌町でした。
美幌町の歴史は古く、昭和九年美幌町観光協会が設立されていましたが、発展的に解消して昭和二十三年四月近野吉次氏が会長となり再スタートしています。
次には阿寒湖観光協会で、昭和二十四年一月に会長吉島力氏理事長松岡義秀氏で発足しています。
足寄観光協会は昭和二十四年一月に「足寄観光連盟」として、会長羽磨卯吉郎氏で発足しています。この「足寄観光連盟」としたのは、そのころ西足寄村と足寄村との連合で発足したからにほかなりません。
また昭和二十三年には釧路支庁から十勝支庁に編入されるまでの間、西足寄村長は阿寒国立公園観光協会の顧問として活躍していました。
釧路市観光協会の発足は昭和二十六年一月で、昭和十三年に創立していましたが、他と同様に従来の組織を発展的に解消し再発足となり、会長には佐熊宏平氏が就きました。
このように阿寒国立公園に係わる主要市町村観光協会組織の再編成が行われ、特に阿寒国立公園観光協会の役割は各観光協会のまとめ役として、また阿寒全体を宣伝する機関として、観光振興の向上を図る上で極めて重要な役割を占めることとなり現在の釧路観光連盟へと継承されていきます。
弟子屈観光協会は昭和十二年一月三十一日に発足しており、会長は土沼助吉氏が就任していましたが、昭和二十五年六月に会長土沼助吉氏 (弟子屈)、 副会長には根津文男氏(川湯)で再スタートとなりました。
しかし、昭和二十六年に弟子屈と川湯との地域的な相違から根津文男氏を会長とする川湯温泉観光協会が分離独立し新たなスタートを迎えることとなりました。
このように阿寒国立公園を取り巻く情勢は加速度的に進展を見せました。
