
※本記事は、1987年に『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。
硫黄山と鉄道百年物語(1)
十月中旬のことです。国道二四三号線を美幌峠に向ってお客様を案内していた私は、和琴小学校の前でおおいに面目をほどこしました。それは沿道に観光客への気配りに満ちた花壇が、今を盛りに咲きみだれていたからです。
花は一番後ろが背の高いダリヤ、真中はサルビア、前は背の低いマリーゴールドやアゲラタムなど、配列と配色を考えて観光客の目を楽しませていました。あまりの美しさに新婚さんなどが、車をとめて記念写真を写して行くそうです。
学校にお伺いしたところ、この花壇は何年も前から公務補のおじさんの指導で、生徒や先生が種から苗を育てたり、球根を保存したりして、春と夏に花づくりをしているということです。
和琴小学校の前は、町内で最も観光客の通行する国道です。何十万あるいは百万以上の観光客が、この美しい花壇を見て、さすがは観光の町弟子屈と感心していることでしょうし、生徒の皆さんも花を育てる生きた学習とともに、観光の町の生徒としての自信と喜びを実感していることと思います。和琴小学校の皆さん本当にありがとう。いつまでも続けてくださいね。
また、今年は商工会婦人部の皆さんの花壇づくりもありました。花と言えば北見の滝上町のシバザクラが有名ですが、これは一人のおばあさんが、根気よくシバザクラを植え続け、やがて町ぐるみでおばあさんを応援するようになり、やがて現在のような日本一のシバザクラの町になったのです。
弟子屈ギネスに書いたとおり、わが弟子屈町は自然美に恵まれていることは、日本のトップレベルです。これに花を添え、優しい心を添えて観光をお迎えしたなら、今よりずっと繁盛することでしょう。みんなで仲よくがんばりましょうね。
さて、今年は安田善次郎という人が、硫黄山と標茶の間に北海道でも二番目という古い鉄道を完成させてから、ちょうど百年目にあたります。
この鉄道は僅か九年で廃止されてしまいますが、町の歴史を知るうえで大切な鉄道ですし、また、代表的な観光地である硫黄山には、弟子屈町の古い歴史が秘められておりますので、これから約一年間にわたって「破黄山と鉄道百年物語」を連載したいと思います。少しむずかしいかもしれませんが、どうぞおつきあいください。
屈斜路カルデラの誕生
硫黄山のことを書く前に、その成立の要因となる日本一の屈斜路カルデラについて、弟子屈町史を参考に勉強しましょう。
屈斜路カルデラの誕生の秘密は、今から数万年前にさかのぼる必要があるようです。数万年前というと、気の遠くなるような大昔のことですが、四十数億年前に誕生したと言われる地球史からみる一と、ほんの少し前のできごとになってしまいますね。
そのころ今の屈斜路湖のあたりに富士山のような形をしたそれはそれは大きな山がそびえていました。この山(屈斜路火山)は盛んに火山活動を続け、大量の溶岩や軽石や火山灰を断続的にふき出し、四方へまきちらしていました。
しきりに活動を続けていた屈斜路火山も、今から約三万年前に大爆発を起し、莫大な噴出物をふき出したため、火山の内部の圧力が減少して、とうとう深さ四〇〇mに及ぶ円形状に陥没してしまいました。カルデラの誕生です。大きな山の名残りはカルデラ壁となり、釧路川によって破られた南部や東部の摩周外輪を除いて、四〇〇〜六〇〇mの外輪山として、今でも確認することができますね。
このカルデラが誕生した直後に最後の軽石が大量に噴出し、その一部は南に流れて、鶴居村の丘陵をつくり、遠く釧路市にまで達しているということです。
そしてカルデラの低い部分に決第に水がたまり、やがて今より大きな円形の古屈斜路湖が生れました。
小さな山々の誕生
作用があれば反作用がありますね。古屈斜路火山陥没の反動のように、今から二万年前から一万年前のころ、和琴半島のオヤコツ火山や、中島火山が噴出しました。また、今の湯沼付近には、富士山のような形をした大きな成層火山が生まれ、やがて陥没してしまいます。
この山はアトサヌプリ外輪山と呼ばれ、今でも名残をとどめていますが、こうした火山活動によって、屈斜路湖は一万年くらい前に今のような形に近づいたと言われます。
さて、現在屈斜路カルデラの中央に、私たちにおなじみの小さな山が一〇個ありますね。これは前記のアトサヌプリ外輪山に関連した山で、今から一万年から七千年ほど前に、釧路川源流付近に丸山とヌプリオンド山・仁伏のニフシオヤコツ山・池の湯の東側のトサモシベ山・そして南部のオプタテシュケ山が次ぎつぎと誕生しました。
その後ひと休みして今から二千年から六百年前ころ、まずリシリ山が噴出し、続いてサワンチサプ山(帽子山)・マクワンチサプ山(かぶと山)が生れ、最後にアトサヌプリ(硫黄山)が誕生しました。
これらの山々はガラス質の石英安山岩でできた溶岩円頂丘群で、粘性が強いためつり鐘のような形をしており、これをトロイデ型の火山と言います。
北海道で一番新しい昭和新山も同じトロイデ型の火山で、昭和十八年から二十年にかけて、噴火や地震をくり返しながら徐々に隆起して、標高四〇八mの山になったのです。アトサヌプリ火山群と呼ばれる小さな山々も、昭和新山のようにして決ぎつぎと誕生したのでしょう。
硫黄山とそのエネルギー
ようやく本題の硫黄山に入ることになりました。この山は屈斜路カルデラの中で、最も新しい溶岩円頂丘であることは、おわかりになりましね。
アイヌ語ではアトサヌプリ(裸の山)と呼んでいましたが、その名のとおり、年中裸になって噴煙活動を続けていますね。アイス人は地名をつける名人です。
ではもう少し読黄山の成因について勉強しましょう。北海道教育大学釧路分校の岡崎教授がお書きになった「釧路の地質」という本によると、いろいろの前史はあるものの、火山灰の研究によって、今から約六百年前に形成されたものと推定しておられます。また、山頂に近い熊落しという爆発火口は、今から約三百年前の最後の爆発で、火山灰を飛ばしてできたものと述べています。
数百年前というと、屈斜路湖周辺や釧路川べりには、先住民族が住んでいたことでしょうから、当時の人びとはこうした天変地異にどのようにして対応したのでしょうか。
また、硫黄山付近には、日本一と言われるエゾイソツツジの群落やハイマツなど、美しい自然花園がありますが、これも今から五百年ほど前の成因と言われます。
さて、年中活動を続けている硫黄山は、一年間にどのくらいのエネルギーを放出しているのでしょう。岡崎先生によると一年間で石炭を十万トンも燃やした熱量であるということです。そしてそのエネルギーの半分は、地下の温泉となって川湯温泉に豊かな恵みを与えているのです。ありがたいことですね。
大切な資源だった硫黄
硫黄山にとって忘れることができないのは、重要な資源の硫黄を豊富に産出する鉱山であったことです。
私たちは今でもレストハウス付近の噴出口で、黄色の美しい硫黄を見ることができます。
これをよく見ると、小さな針状の硫黄が昇華結晶したものであることがよくわかります。硫黄山ではこうした硫黄の結晶が多年にわたって蓄積され、やがて全国的に有名な硫黄鉱山となったのです。
そして、明治維新後まだ日の浅い明治十年から、硫黄の採堀がはじまり、やがて鉄道が敷かれて、僅かな人家しかなかったわが町弟子屈に本格的な開発が実施され、当時小さな漁村にすぎなかった釧路にも、石炭産業や貿易港としての基盤を与えたのも硫黄山の硫黄鉱石だったのです。
次回以降はこうした硫黄山開発のドラマを書き続けますので、どうぞ連続してお読みください。
