弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(11)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

道路とバス

観光振興にとって戦後最大の課題は道路の改修と交通アクセスの問題であったようです。

特に釧路美幌線鉄道が具体化せず、長い間陸の孤島となってしまう阿寒湖畔にとっては死活問題であり、当時の小村阿寒村長や山浦旅館山浦久三郎氏は、自分の仕事も投げうって、長年にわたり道路改修を叫びつづけ、出来たばかりの阿寒国立公園観光協会の第一の仕事が道路の陳情機関という状態になってしまいました。

戦後のバスの運行状態を見ると、昭和二十一年の場合は悪路のため六月一日にやっと一往復が開通し、それも途中に橋梁破損があって、上飽別で乗り換えというありさまで、六月二十八日になって釧路〜阿寒湖畔〜相生に直通バスをそれぞれ二往復させるという状況でした。

昭和二十二年ではもっと深刻で、釧路〜舌辛間は悪路のため雄別鉄道を利用し、六月五日になって舌辛〜阿寒湖畔間がやっと開通するという状態であるため、旅館や土産物品店等が死活問題となるのは当然であったと考えます。

東邦交通では、戦時中五十台もあった車両も、酷使がたたってつぎつぎと廃車になり、鉄の供出時期で十八台の車両がくず鉄にされてしまい、昭和二十二年にはわずか十七台の木炭バスが釧路市内と広い道東のバス路線を受け持っていたのです。

幸い昭和二十二年に自動車業界も銀行からの長期融資を受けることができるようになり、会社側の努力もあって、次第に増発体制が図られ、定期便を運転したことのなかった横断道路は昭和二十三年に、また弟子屈〜摩周湖線は昭和二十四年に運転再開にこぎつけています。

道路を守る土木現業所の方も、陳情を受けても予算がないという実情で、昭和二十二年度の場合は道路関係の予算総額一千万円、うち不急とみなされた観光道路には、摩周湖付近の改修にわずか三十五万円しか予算化されず、手の打ちようもなかったようです。(昭和二十二年六月十五日付北海道新聞社掲載)

幸いなことに、開発建設部と土木現業所とが連携し、予算のない状況下の中でも懸命に観光振興のための道路計画を熱心に検討しており、新ルート開発の夢を描き、摩周湖〜川湯間、滝口〜ボッケ〜阿寒湖畔間、横断道路〜ペンケーバンケ〜サッテキナイ間の道路新計画にまで取り組んでいたようです。

昭和二十年代の道路関係で最大の朗報は、前記計画の内、摩周第一展望台〜川湯までの道路に千二百万円の予算が確保され(昭和二十四年五月十七日付北海道新聞社掲載)、計画を練った開発建設部や土木現業所を始め、要望をつづけてきた阿寒国立公園観光協会関係者、特に弟子屈村長や村民は歓喜に溢れたことであったと想像します。

こうして、昭和二十四年この道路が完成し、戦前からの既設道路と併せて、基幹道路が全て完成することとなりました。

昭和二十五年には国土総合開発法が制定され、昭和二十六年からは北海道開発庁が発足し、以降道路は北海道総合計画の中で、社会資本として整備されるようになりました。

これと歩調を合わせるようして、昭和二十六年には観光用ロマンスシートの新しいバスが登場し、急行定期観光便も運転が開始され、すっかり木炭バスは姿を消してしまいました。

このころになると、観光バスガイドが登場します。戦前は車も小さく定員も少ないため、運転手が切符切りから景勝地の説明や歌も唄ってサービスに努めていたようで、文字通り本格的観光案内が開始されたのでした。

当初ガイドのテキスト一つ作るにしても大変苦労があったようです。

このようにバスが発展してくると、昭和十九年に企業合同し東邦交通では、釧路市内バスと観光バス部門とが分離され、それぞれの分野で発展すべきであるという機運が高まり、昭和二十八年十二月二十五日、東邦交通と阿寒バスの二社に分離しています。

初代所長は東邦交通が舘徳蔵氏、阿寒バスは伊藤鉄次郎氏でした。

この時譲渡を受けた阿寒バスの定期路線は二十二路線、 五二八六キロメートル、バス四十両であったことから、バス業界がわずかな間に著しい発展を遂げていたことがうかがい知ることができます。

阿寒国立公園と国鉄バス

国鉄バス(戦前は省営自動車)阿寒地帯に運行しようという計画は、予想外に古く、昭和八年に一度検討されています。

それは当時釧路運輸事務所長であり、阿寒国立公園指定運動に熱心であった阿部牧太郎氏が、新設された本省自動車課に栄転し、早速阿寒発展のために省営バス運転を計画したもので、その結果昭和十年第十六鉄道会議本会議において、 美幌・弟子屈・川湯・サッテキナイ間の運行を諮詢しましたが、実現に至りませんでした。

戦後東邦交通の車両が最も不足した昭和二十二年六月、阿寒国立公園観光協会定期総会が弟子屈グランドホテルで開催された際に重要議案として、「阿寒国立公園に省営自動車を運行する陳情」が審議され、大多数の賛成で議決されようとした時、東邦交通社長舘徳蔵氏が次のような主旨の発言がありました。

「われわれ自動車屋は、大正の末から現在まで細々と営業してきた。特に戦争中の運行は赤字つづきで、塗炭の苦しみをしていたのは、皆さんの知っているとおりである。今戦争が終わり、これから本格的な観光が始まって、やっと曙光が見えようとしている時、省営自動車を入れようというのは、われわれを見殺しにして顧みないことである。観光協会とはそういうものか!観光協会は地元業者に対して人情の一かけらもないのか!」

と血を吐くような大演説により、出席者は一堂に声もなく、重要議案は全員一致で否決となり、これ以降二度と阿寒国立公園観光協会での省営自動車に対する要望はありませんでした。

その後、昭和二十七年の運輸審議会で、国鉄バスに対し釧路一円の観光バス事業が許可され、貸切バスについての営業権を得ることになりました。

一杯船主の遊覧船

終戦になった時点では阿寒三湖で遊覧船が残っていたのは、阿寒湖の黒沢氏が経営する船一隻だけだったようで、しかも船は石油不足のため、木炭をたいて進む木炭船でした。

やがて阿寒湖への観光客が多くなり始めた昭和二十五年、折から復員した岩渕作一氏が、第一遊覧丸四トンを建造して阿寒湖に浮かべました。

当然新船と古い木炭船では勝負にならず、黒澤氏は廃業してしまいます。

昭和二十六年、ロマンスシートの新車バスが登場し、急行ばすも運転されるようになると、遊覧船業者が急増し、阿寒湖は十人の一杯船主による激しい競争時代に入りました。

当時は十人の船主の大部分がそれぞれ桟橋を持ち、短いシーズンに観光客を奪い合うことになりましたが、儲けたのは船主ではなく観光客を斡旋した宿の番頭の方だったという笑い話さえある程でした。

こうした実情を憂いた岩渕氏は、業界に対して「小さな船で競争していては共倒れになるばかりか、大手資本の進出を許してしまう恐れがあるので、早く一体となってお互いに生きる道を作ろう」と呼びかけるのですが、 白熱化した業者間の耳には入りませんでした。

そこで阿寒バスの森口氏、釧鉄の岩堀氏、交通公社の片岡氏の三氏が岩渕氏を支持し、郷土のため接客上のためにも合同すべきだと説得し、ようやく昭和二十七年に遊覧船組合を作り、合同への第一歩を踏み出すことができました。

このころ、合同に都合の良い二つの問題が生じました。

一つには厚生省が湖岸埋立に際し遊覧船業者には一本の桟橋しか許可しない方針を出したこと。もう一つには映画俳優の江川宇礼雄氏が、当時「我が恋はリラの木陰に」の撮影で、アイヌの方々にお世話になったお礼にと、愛用の船を山本多助氏に寄贈し、屈斜路湖に阿寒観光株式会社が誕生したことです。

この会社は更に阿寒湖の一杯船主が持っていた四トン〜八トンの船とは比べものにならない大きな船を建造し、大量輸送の力と外来資本の恐ろしさを十分に認識させられたことでした。

こうして昭和二十九年、現在の阿寒観光汽船株式会社の前身となる阿寒遊覧船株式会社が創立されました。