弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(15)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

土沼助吉氏の見解

戦後の「阿寒国立公園」名称変更運動は、昭和二十六年に内越三郎氏が、昭和三十年には丹葉節郎氏と根津文男氏がそれぞれ見解を明らかにした結果、 一気に公の場で論議を巻き起こすことになりました。

そこで、更に明快な見解を持った人物が登場します。

それは弟子屈温泉の老舗旅館の土沼助吉氏です。

氏は村議会議員や観光団体役員などを歴任し、また昭和三十八年には紺綬褒章を授けるなど多岐にわたって弟子屈町の発展に貢献した人物です。

氏を紹介した貴重な本が出版されています。 更科源蔵著「明治人土沼助吉小傳(昭和四十四年四月二十六日発行)です。この著書は昭和三十八年二月二十六日に七十七年の生涯を閉じた土沼助吉氏の小伝記で、更科源蔵氏はこの著書の中で「明治というきびしい時代を生き、一人の人間として描いてみたいと思った。折目正しく生きた明治人として、常に敬意を抱いていた」と人物評価を行っています。

この著書で「町名」変更と「阿寒国立公園」 名称変更についての見解が紹介されています。

その部分は昭和三十二年十月十五日付で土沼氏から著者に宛てた書簡の中で明らかにされています。

なお書簡中の二つの見解の内町名変更については別な機会に扱うこととしますが、「候」文から漂う明治人土沼助吉氏の理路整然とした説得力と力強い文体の意を損ねてはならないことから、書簡全文を紹介することにしました。

天高く気澄む好季二御座候処弥々御清健之段賀上候、陳者唐突失礼を不顧一書差上候次第は、兼て御聞き及び被成候事と存じ候も、弟子屈町名を摩周町と改名せんとする一部二三の者が、 観光宣伝之為めとか、赤単二読みにくえとかの理由にて、御承知之通り一昨年全町民之賛否を需めたる際も、賛成の回答者は約三分ノ一よりなく、其結果の其尽立消へになりたる如くありしに、赤々最近に至り北海タイムス、道新の両新にまで手を延し、啓蒙的暗躍なし、一方町理事者も一部の者之圧力に共鳴せるかの如く、九月二十八日の定例議会ニ協議事項として、又しても町名改名之提案せる者にて、其席上二三者の強引なる説明にて、二三の反対者之弁駁ありたる由なるも、次回の町議会にて提案する事になりたる由を聞き、実ニ理解に苦しむと同時二慨嘆二堪へざる次第に候、町名改名の理由が町政運営上、乃至観光宣伝上大きな支障ありとするならば兎も角、一度結論を得たる問題なるに、自己の面子を失へたるが如く邪道的な考へにて、多数町民之意志を動揺さすが如き、其執拗さには到底吾等の黙視するに不堪所二候。
昭和九年阿寒国立公園生れて二十四年、現今にては年々殺到する幾十万之観光者に膾炙されつ、ある、弟子屈、殊に明治十八年以来吾等に先考諸氏が、 営々艱、難辛苦を嘗められ、今日の弟子屈が成りたるを思へ、貴台の父祖が御料地の設定以前より、弟子屈村開拓の第一鍬を熊牛原野二下されたる業績など想へ合せ、七十幾年の歴史ある弟子屈を、彼等新入植者に対しき二三者の煽動的暗躍の内に町名の改名が大業績なるかの如く考へ、野望を成し遂げんとする事ハ、心ある愛郷者之忍ふ不能所二候。吾々としても旧慣に泥み、弟子屈町二執着する者には決して無之、又彼等主唱者も何とかして弟子屈を観光地として、宣伝発展せしめたときの意図ハ認る者に候も、只ダ摩周町の町名己を以て足れりとするが如き、 皮相感を捨て、全国国立公園中随一と云わる、摩周湖に、近代的之施設をなし幾十万之観光者をして、同湖の真価を嘆賞せしめるに足る施設の構想の下に、計画すすべきこそ焦眉の急なる事を、機会ある毎二提唱致し居る者二候、同時二汎と摩周湖を関知せしむる捷径の一法として、阿寒国立公園の中二摩周の二字を加へ阿寒摩周国立公園とする事も、多年唱導し来りたる者二候。此事ハ先年町理事者並二町議一行が、陳情の事ありて上京の折、厚生省二右の陳情せし処、国立公園法の訂正に依らざれば、不可能なりと申されし由の報告にて、町民も失望致し居りたる者に候。隅々九月六日池田元蔵相ら御一行御来弟之折、右の公園名変更ニ対し町民多年の熱望なる事を、町長以下有志列坐の席上池田先生二親しく申上げたる処、池田先生ハ同行の八田厚生委員二対し、公園名変更は法律によらずとも厚生省の告示にて出来る故、町民ノ熱望を充分酌量さるる様申され、 吾等一同も不遠実現する者との確信を得、安堵せし次第にて、町当局二於てもやがて町議会を経て、陳情二乗り出す準備中なる由聞き及び居り候、右様之次第にて、弟子屈の町名を永久に保持致させ度、独り焦慮の末、此上ハ弟子屈町之出身者にして而も町名改名には深く関心を寄せられ居らるる趣きを思へ浮べ、前述の経過等お訴へ申上げ、貴台之高邁なる麗筆もて、この弟子屈町の異変事に直面して、冷静に判断を誤らさる様、町民二対し一大警告を与へ被下度、切二切二御願申上ぐる次第二御座候。何卒何卒微衷御賢諒下度梱願申上候。

昭和三十二年十月十五日
土沼拝

法律改正なしで変更可能

池田勇人氏はご存じのとおり「所得倍増計画」を提唱した首相として知られていますが、この時代は総理大臣になる前の来町であり、来町目的が何であったのか定かではありません。

また「町長以下有志列坐」とありますが、町長は今泉秀雄氏ですが、「以下有志」にはどんな方々が列坐したか判明しませんが、少なくとも町議会議長や観光協会役員等は出席したのではないかと考えられます。当時の議長は田中寅三氏であり、土沼助吉氏本人も出席されていたものと予想されます。

「池田先生ハ同行の八田厚生委員二対し、公園名変更は法律によらずとも、厚生省の告示に出来る故、町民ノ熱望を充分酌量さるる様申され、吾等一同も不遠実現するものとの確信を得、安堵せし次第にて、」とありますが、前年昭和三十一年に町理事者と町議会一行が「阿寒国立公園」の中に「摩周」の二文字を追加して、「阿寒摩周国立公園」とする陳情を当時の国立公園担当省の厚生省にしましたが、その結果厚生省の回答は「国立公園法の改正に依らなければ不可能である」との内容であったために、町民や関係者は失望したという経緯があったため、池田元首相の指示で即座に調査した八田厚生委員により、「国立公園法の改正をしなくても名称変更が出来る」という百八十度正反対の回答であったために喜びもひとしおであったことが伺えます。

この背景には昭和三十二年に「阿寒村」が「阿寒町」に町制施行された年でもあり、このことが町理事者、町議会、町民、関係団体関係者の一つの起爆剤になって町名変更問題と国立公園名称変更問題が再燃したのではないかと考えます。

この池田元首相が来町した際のことを現ホテル丸米専務土沼真佐氏は「十数台の車を従えて当旅館に泊まられ、確か故福田赳夫元首相も政務次官として同行していたと記憶しています。」と当時を回想してくれました。

更に名称変更運動の展開について掲載します。

前号に掲載した人物写真は、「丹葉節郎―郷土文化に貫く情熱―」(編集釧路新聞社発行「丹葉節郎」刊行委員会・昭和五十八年十二月十日発行)によるものです。