弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(16)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

国立公園で名称変更が次々と実現

前号は気骨な明治人土沼助吉氏の理路整然とした阿寒国立公園名称変更論を紹介しましたが、その後のしばらくの間名称変更運動は記録に残されていません。

池田勇人元首相の来弟により法改正しなくても名称変更が可能であることがわかり、「すぐさま町及び町議会が中心となって精力的な陳情活動の準備に入った」と記されていましたが、その後の動きを知る資料を捜し出すことができませんでした。

一方、全国の国立公園では積極的な取り組みにより名称変更が実現し、特にこの時期昭和三十年代に集中しています。
一、昭和三〇年三月十五日「富士箱根国立公園」が区域追加によって「富士箱根伊豆国立公園」と改称
二、昭和三一年七月一〇日「十和田国立公園」が区域域追加によって「十和田八幡平国立公園」と改称
三、昭和三八年四月一〇日「大山国立公園」が区域変更によって「大山隠岐国立公園」と改称
四、昭和三九年三月十六日「霧島国立公園」が区域変更により「霧島屋久国立公園」と改称この四つの国立公園の名称変更は「地区追加」及び「区域変更」による名称変更の実現でした。

残されていた最も古い陳情書

この最中で「阿寒国立公園」の名称変更運動は昭和三十年代中期から昭和四十年代初期まではほとんど動きがなく、昭和四十六年十月付の陳情書が決裁文(下記掲載)として残されていました。今から二〇余年前の文書であり、驚くほどの古い文書ではありませんが、昭和五十一年に役場庁舎が焼失しほとんどの文書がなくなってしまっていることから、大変貴重な文書と言えます。
この陳情書がどのような経過を辿って作成されたのか、また陳情先も明記されていないので不明ですが、文章内容からいって環境庁には提出されているものと考えます。
しかし、陳情書中後段「・環境庁の設置を機会に・・」とあるように昭和四十六年七月一日環境庁が誕生していることから、しばらく途絶えている名称変更の再起を狙ったものと考えられます。
陳情内容を見ると、今までの名称変更論の主軸は阿寒区域及び弟子屈区域の国立公園を占める「面積比」でありましたが、この陳情書では「観光客数」を変更理由の主軸にしているところが従来と違った論点として注目されます。
また裏摩周区域の拡大も睨んだ従来にない特徴ある陳情内容となっています。

環境庁、調査を約束

ここで昭和四十七年十一月二十四日付北海道新聞記事を紹介しましょう。

『阿寒国立公園名に「摩周」の二字を追加するため、釧路管内弟子屈町は町議会を中心に環境庁などへ陳情運動を続けている。同庁も実態調査に係官の派遣を約束したといい、議会側は「門戸が開けた」として次の対策を検討している。

同町は摩周湖を含め総面積の八〇%近くが国立公園指定区域となっているが、公園名には阿寒しかついていない。これでは町の印象が弱くなり、今後観光面が盛り上げるためにもこの際、名前を「阿寒・摩周国立公園」に改めて欲しいというのが陳情の趣旨。

こうした話は十数年前にも一度持ち上がったことがあるが、その時は公園名ばかりではなく町名も摩周町に変えようというものだった。 摩周湖を知っていても、それがどこの町にあるのかわからないようではマイナス、ストレートに摩周町の摩周湖にした方が得策との判断からだった。

しかし、これについて町民にアンケートを求めたところ、それほど支持が得られず、また、たまたま横綱大鵬の出現で弟子屈のイメージがアップしたこともあって、次第にしりつぼみ。
当時の厚生省も陳情には消極的な態度だったという。

こんど運動が再燃したのは、摩周湖を訪れる観光客が年ごとに増える一方、裏摩周付近で公園地区の拡大が具体的に検討されるなど、以前とは情勢が変わってきたため。道内には支笏洞爺など他にも二つの地名をつけた公園があり、阿寒の場合も問題はないだろうというのが議会関係者の考えだが、名称の変更はそれほど簡単にはいかず、国立公園審議会もそれ相当な理由がなければ応じないという。

議会側はこのほど行った陳情に対し、環境庁が「近いうちに現地を調べる」と答えたということで「事態は好転」と明るい見通しを持ち、今後町民の声を盛り上げて実現にこぎつけたいとしている。」

このように、前述紹介した陳情書を基に、町議会が中心となって精力的な陳情活動が行われていたことが伺えます。

この結果として「環境庁に現地調査を約束」させたことは大変な前進であり、阿寒国立公園名称変更運動史上にとって画期的な成果であったと考えます。

陳情要旨
このことについては昭和28年以降再度厚生省に陳情しておりましたが、 遺憾ながら未だその目的を達しておりません。

御承知のとおり阿寒国立公園は昭和9年12月誕生し爾来30有余年の歳月を経て今日に到っておりますが、 この間阿寒国立公園の名声はひとり国内のみに止まらず、広く海外にも宣傳され、年々この公園を訪れる観光客の数も次第に増加し、昭和44年度には2,888,589人を越える数字を示す状況であり、これら観光客の来訪を観光地別に見れば別表に示す如く阿寒町関係は総数の約24.3%、 弟子屈町関係は約75.7%を占め就中本町所在の摩周湖を訪れたものは約20.0%を超え、観光客は何れも摩周湖の景観を絶賛して 「摩周湖の風景は世界屈指の風景であり観光阿寒を代表するものであるので阿寒国立公園の名稱に「摩周」の2文字を追加し「阿寒摩周国立公園」と改稱して広く内外に紹介すべきであるとの声が強く寄せられ、かつ隣接阿寒町においても早くからこれが改稱につき賛意を表明せられておりこのことは摩周湖のもつ真価よりして当然のことと考へられるのであります。

更に昭和42年10月30日発行の北海道新聞には厚生省において網走支庁清里町と根室支庁管内中標津にまたがる裏摩周地区及び網走支庁管内小清水、東藻琴 美幌3町村の藻琴山北面地区の 3,049haを阿寒国立公園区域に追加拡張する計画にて昭和43年春拡張区域その他を決定する趣登載されておりましたが未だ実現せず今日に到っております。

幸いにしてこれが実現の時は、観光、 健民、 学術研究、 療養等のためこの地方を訪れるものも更に増加し摩周湖の真価が一層認識証明されると共に、 綜合的観光大阿寒標傍と当地方一帯の観光事業助長のためにも 「阿寒国立公園」の名稱を「阿寒摩周国立公園」と改稱せられるよう環境庁の設置を機会に格別の御高配を賜りたくお願いする次第であります。