
※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。
硫黄山と鉄道百年物語(2)
硫黄鉱石の発見と採掘
数百年にわたって、噴煙をはきながら硫黄を蓄積してきた硫黄山がクローズアップされ、大切な近代産業の重要資源として、脚光をあびる日がやってきました。むかしむか史第二号に書いたとおり、僅かなアイヌ人しか住んでいなかった弟子屈町内に、初めて産業がおこり、大ぜいの人や馬が入ってきたのです。
では、硫黄山の硫黄は、いつころから知られるようになったのでしょうか、勉強しておきましょう。明治二十二年に発行された北海道鉱山略記という本によると、「硫黄山の硫黄鉱発見は、たいへん古いことでこれを明らかにすることはできないが、慶応年間(1864~1868年)に、松前藩の役人が硫黄を採取したという口伝えがある」と書いています。
また、弟子屈町が生んだ郷土史家更科源蔵氏のお書きになった弟子屈町史(以下更科町史という)には、「硫黄山の発見は安政年間(1854~1860年)とも言われているが、現在残っている資料では、明治五年とされている」と書かれており、確かな証拠は無いものの、明治以前にはおぼろげながらも知られていたことはまちがいないようです。
では、本格的な確認や採掘の初めはいつのことでしょう。 北海道鉱山略記と更科町史を参考にしてまとめると、おおよそ次のようになります。
硫黄山の硫黄は、古くからアイヌの人びとが禁付(たきつけ)用に使用していたことを、釧路で漁場持をしてい佐野孫右衛門がこれを聞き、明治五年に手代吉田善助に命じて、屈斜路のアイヌを道案内にして実地調査をさせ、優秀な硫黄鉱石のあることを確認しました。
そこで佐野孫右衛門は、明治九年開拓使に硫黄の試掘願を提出し、許可を受けて約六百石(百石は十五トン)を試したところ、品質がたいへん良く埋蔵量も多いので、翌十年に硫黄鉱区の借区願を提出し、五万十坪の借区が許可されて本格的な硫黄採掘を初めました。
従って、硫黄鉱石の確認は明治五年、硫黄の試掘は明治九年、採掘は明治十年ということになりますね。
米屋と佐野家
さて、ここで佐野孫右衛門のことを書きとめておきましょう。釧路の名所米町公園の付近に、佐野碑園と呼ばれる小さな公園があります。ここは釧路市発祥の地で、江戸時代の役所である釧路会所跡の碑や、釧路で一番早く開校した丸太学校跡(今の日進小学校)の表示や、歌人石川啄木の日記に掲載の料亭「喜望楼の跡地として、啄木歌碑も建立されていますが、その中で一番大きな石碑は、佐野家特に四代目孫右衛門の功績をたたえた佐野氏紀行碑です。
佐野家の屋号は米屋(釧路の米町の語源となる)と言い、今の新潟県三島郡寺泊町の出身です。寺泊は旧北国街道の宿場町で、日本海を航行する北前船や、佐渡が島に渡る船の重要な港として栄えていました。米屋の家業は主として船による運送業だったと言うことです。
佐野家の祖となる米屋孫兵衛(のちの初代佐野孫右衛門)は、天明元年(1781年)松前に進出したと言われ、文化二年(1805年)に釧路の場所請負人となりました。場所請負人とは、松前藩から交易権や漁業権を請け負い、その代償として運上金(税金のこと)を納める商人のことで、大きな権力を持っていました。そして慶応二年(1866年)には函館湊(みなと)の御用達商人となり、苗字帯刀を許されて、佐野家と名のるようになったということです。釧路市史によれば、佐野家は敬神の念にあつく、漁業安全と豊漁祈願のため、今の広島県の宮島から、厳島神社の分霊を請けて神社を創建し、これが今でも釧路市の鎮守となっている厳島神社であると言うことですし、道路の補修をしたり橋を架けたりして、公共のためにも力をつくしました。
四代目佐野孫右衛門のこと
佐野家の中でも特に釧路地方の発展に功績があり、また硫黄山の開発を実施したのは四代目の佐野孫右衛門です。この人について北海道開道百年を記念して道庁が発行した「北海道開拓功労者関係資料集録」という本によって勉強しましょう。四代目孫右衛門は、天保十一年(1840年)松前の唐津町内で生れ、僅か十六歳で佐野家をつぎました。
そのころ徳川幕府の箱舘奉行は、ロシアの南下にそなえて樺太(今のサハリン) 開発を考えていましたが、だれもこれに応ずる者がおりませんでした。そこで若い孫右衛門は進んでこれに応じ、東樺太海岸で漁場を拓き、六年間にわたって経営しますが、交通不便で漁獲量も少なく、時代劇のテレビでおなじみの千両箱十八箇という巨大な私費を使いながら、赤字のため経営を断念したということです。そしてこれが佐野家全体の経営を圧迫する原因にもなりました。
また、慶応元年(1865年)には、箱舘の米価が高騰したため、飢えに苦しむ人びとに毎朝白米一俵をおかゆにたいて供食し、これを半年間も続けたという美談もあります。
明治三年になると孫右衛門は戸籍を釧路に移し、また秋田・青森・函館地方から移民一七四戸六三七人を募集し、釧路や釧路町の海岸部に移住させました。この年が釧路市の開基となっています。
更に明治四年には巨費を投じて釧路の米町に、長さ七町幅四間の道路を開削したりしますが、このころになると佐野家の経営は、ますます苦しくなり、とうとう累代の釧路場所を返上して、函館に引き揚げて行きました。
四代目孫右衛門と硫黄山孫右衛門のいなくなった釧路の経営に、北海道開拓使(今の道庁)はたいへんこまりました。佐野家の後の経営を引き受ける人がいないのです。
こまり果てた開拓使は、再び孫右衛門に漁場持を命じ、資金援助をするようになりました。
しかし、明治になってからは漁民の生活が次第に安定してきました。これは当然のことなのですがその反面漁場持佐野孫右衛門の支配力は低下し、経営は更に苦しくなってきたのです。おまけに明治九年になると、徳川時代から続いた古いしきたりの漁場持(場所請負人)に頼る必要が無くなり、水産物の販売も近代的な商会の創立等によってルートが開けたため、開拓使は漁場持制度を廃止してしまいました。これによって四代目佐野孫右衛門は、漁民に対する支配権や、政府援助の保障などの総ての特権を失なってしまいました。
明治九年という年は、既述のとおり、手代吉田善助に調査を命じた硫黄山に対し、硫黄試掘願を開拓使に提出し、その許可を得て硫黄の試掘を実施した年ですね。つまり孫右衛門は、佐野家の将来に回生の道を見出そうとして、硫黄山の開発に乗り出したのです。 そしてそれが、わが弟子屈町の初の産業となったのです。
