弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(1)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

はじめに

雌阿寒岳から一望
昭和6年発行「阿寒国立公園 阿寒」(阿寒国立公園期成会編)に掲載された写真

今年は、「阿寒国立公園」指定六十周年の年にあたります。

昭和九年十二月四日に国立公園に指定されて以来、すでに半世紀以上たっています。

この年を機会に阿寒国立公園の生い立ちとその変遷、そして阿寒国立公園名称変更運動などの歴史を三回(※結果的には22号まで掲載)にわたって連載していきたいと考えています。

この掲載にあたりましては、前町立図書館長でありました故種市佐改氏が釧路観光連盟事務局長の任に就いていた昭和四十九年に著作として発表した「阿寒国立公園指定四十周年記念誌」(阿寒園立公園広域観光協議会発行)中・「阿寒国立公園物語」を紹介しながら、また他の関係文献も活用しながら進めていきたいと考えています。

これまで充分な資料が用意できなく大変苦慮していますが、戦前からの多くの町民の悲願でもあります国立公園名称変更運動の一助になれば幸いと思います。

国立公園のおこり

世界で初めて「国立公園」として誕生したのは、明治五年「国が設置する大規模な自然公園」としてアメリカのイエローストーン国立公園で、各国に大きな影響を持つことになります。

この公園は自然保護と観光を両立させたタイプのもので、カナダや日本に継承されました。

一方ヨーロッパでは国土が狭く貴重な自然に乏しかったという点から、ドイツやイギリスのように自然保護が主体でした。

日本の場合はどうでしょうか
・明治四年~太政官布告「古器旧物保存方」
・明治六年~太政官達「公園設置」
・明治二十一年~「古社寺保存法」制定
・明治三十一年~「帝国史蹟調査会」発足
・明治四十年 〜「自然及び天然記念物に関する提案」議会決議、「史蹟名勝天然記念物協会」設立
以上のように「保護」を主体とする法令等が先行し、法律的には大正八年「史蹟名勝天然記念物保存法」が制定され、大正時代からすでにマリモやタンチョウなどの保護が確立されていました。

一方、国立公園指定の萌芽も明治時代後半になって動き出します。

明治四十五年、当時日光町長西山真平氏が、日光の荒廃を国で守ってほしいということで、「日光を帝国公園となすの請願」を提出し、議会で採択されました。

これが日本の国立公園誕生のきっかけとなりました。

しかし、法律として確立されるのはもっと遅く大正十年になってからです。

阿寒湖を中心とする候補地

大正十年、第四十四帝国議会において「明治記念日本大公園国立の請願」が採択されることになります。

日光町長が請願して約十年の歳月を経て、やっと政府が国立公園施設を認めることとなり、いよいよ国立公園設置に向け本格的に動き出します。

同じ年大正十年度から当時担当省であった内務省衛生局が「国民保健と史蹟名勝天然記念物保存」の立場で十六の国立公園候補地を発表し、そのための具体的な基礎調査を行うこととなりました。

全国十六候補地は次のとおりです。
一、上高地を中心とする国立公園候補地
二、白馬山を中心とする国立公園候補地
三、日光を中心とする国立公園候補地
四、温泉岳を中心とする国立公園候補地
五、阿蘇山を中心とする国立公園候補地
六、富士山を中心とする国立公園候補地
七、大台ヶ原を中心とする国立公園候補地
八、磐梯山を中心とする国立公園候補地
九、阿寒湖を中心とする国立公園候補地
一〇、霧島山を中心とする国立公園候補地
一一、小豆島及屋島を中心とする国立公園候補地
一二、伯耆大山を中心とする国立公園候補地
一三、十和田湖を中心とする国立公園候補地
一四、立山を中心とする国立公園候補地
一五、大沼公園を中心とする国立公園候補地
一六、登別温泉を中心とする国立公園候補地

ご覧のとおり現在の「阿寒国立公園」が、当初から国立公園候補地として名前を連ねていたのです。

阿寒国立公園」の「阿寒」は「阿寒湖」の「阿寒」

内務省が「阿寒湖を中心とする国立公園候補地」と発表しましたが、あくまでも阿寒湖を中心とする地域であり、摩周湖や屈斜路湖は本命視されておらず、候補地区域に入っていなかったと推察されます。

最終的には摩周湖や屈斜路湖などの区域も入り、昭和九年に「阿寒国立公園」が誕生することになりますが、この「阿寒国立公園」名称の「阿寒」は、内務省が発表した「阿寒湖を中心とする国立公園候補地」の「阿寒湖」を示すものと解釈するのが妥当と考えます。

もう一つの理由は、この当時舌辛村であり、阿寒村に変わったのは「阿寒国立公園」が誕生した昭和九年の三年後昭和十二年のことです。したがって「阿寒国立公園」の「阿寒」は町村名ではないことがわかります。

やはり当時はいろんな条件が重なり本命は「阿寒湖」であり、摩周湖や屈斜路湖は弟子屈村民の猛運動の結果、指定地域にようやく入ったというのが真相のようです。

当時の阿寒湖の知名度

それでは「阿寒湖」がなぜ本命だったのでしょうか。その理由はたくさんあると考えられますが、その一つとしてマリモの存在が上げられます。

大正八年に「史蹟名勝天然記念物保存法」が制定され、大正十年三月三日にマリモが北海道では一番早く国指定の天然記念物に指定されています。

マリモは明治二十七年農学博土川上竜弥氏がシリコマベツで発見し、宮部金吾博士によって名付けられたとされ、大正十年代にはマリモの盗採や枯死問題が論議され、また著名な学者等の手によって盛んに調査研究が行われ中央でも注目されたという点でしょう。

もう一つは前田一歩園の存在ではないでしょうか。前田一歩園の初代は薩摩藩士として活躍された前田正名氏で、農商務次官まで歴任しますが、明治二十四年に官を辞め「各種産業団体を組織して商権を確立し、直接貿易によって国力を充実させるべきである」との意見をもって単身全国遊説をつづけ、大日本商工会や大日本畜産会などを結成させ「布衣の農相」とまで言われた人です。そして明治三十九年に模範林・模範牧場の経営と良民の移住奨励を目的に阿寒湖畔に五千町歩の払い下げを受け一歩園の経営を始めました。

当初から「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」という家憲を定めており、この公共事業への奉仕は二代目園主正次氏、三代目園主光子氏に受け継がれ、積極的な公共福祉への協力と、執念とも言える原始美保持への努力は今もなお一貫して進められていることはご周知のとおりです。

このように、前田氏の存在そのものが「阿寒湖」の地名度をさらに高めたものと推察され、また氏によってこの広大な自然を保護保存してきた努力が、自然第一主義であった国立公園調査委員の心を打つことになったものと考えられます。

一方、摩周湖や屈斜路湖はどうだったのでしょうか。

昭和二年に東京日日新聞が公募した「新日本八景」の結果、摩周湖や屈斜路湖に至っては一票もなかったという状況からもわかるように、国民的に周知されず、まさに神秘のベールにつつまれていたと考えられます。

昭和6年発行「阿寒国立公園 阿寒」(阿寒国立公園期成会編)に掲載された写真