弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(2)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

「阿寒国立公園」誕生の三恩人

大正十年に国立公園候補地が発表され、指定に至るまでには大変重要な人物が勢力的に活躍していたことを見逃すわけにはいきません。

まず一人目は「国立公園の父」と言われる林学者で国立公園調査会メンバーの田村剛氏です。二人目は「阿寒国立公園繁栄の父」 釧路土木派出所長永山在兼氏。 そして三人目が「阿寒国立公園PRの父」釧路営林区署長近藤直人氏です。

田村剛

田村剛氏は、岡山県出身で林学博士。東大卒業後間もなく明治神宮外苑のマスタープランをまとめ上げるなど、現在常用語となっている「造園」「回遊式庭園」はもちろんのこと、「国立公園」という言葉を誕生させたその道の先覚者です。

博士は大正九年に内務省衛生局の嘱託となり国立公園の検討をしていましたが、氏の事跡は十和田湖までで、北海道は未知の世界でしたが、恩師本多静六氏の推奨で大沼と登別を候補地にしたものの道東地方はまったく白紙状態でした。その頃、たまたま本多博士宅を訪れた北大の新島善直博士と面談する機会を得た際(東大内食堂で会ったという説もある)に、新島博士から「阿寒湖とその周辺」の景勝美を推薦してくれたことが、「阿寒湖を中心とする」 地域を候補地として上げた契機となったようです。

当時の林学者の最大の魅力は原始林であり、「阿寒地方の豊かな原始林」の話題は、三人の林学者としての立場からいって、直接的に国立公園候補地として登場させることは共通の理解にあり、また指定につながる原動力となったと推察されます。

博士は十六ケ所の国立公園候補地発表後、巨額の自費を用意して、一年半にもわたる欧米の国立公園視察を敢行し、その成果を国内に活かそうとしますが、大正十二年の関東大震災により中断することとなりましたが、徹底した実証主義者であった氏は大正十四年に釧路・阿寒を隠密で指定地調査を行っています。

博士は大切な右足を切断する交通事故に遭遇しますが、それにひるむことなく、阿寒はもとより全国各地の候補地を自らの目で確認しました。

まさに「国立公園の父」であります。

永山在兼

鹿児島県出身で東大卒の土木技術者永山氏は大正七年に釧路土木派出所に赴任しました。 それ以来十二年にもおよぶ道路建設に専念しました。

氏の業績は釧路地方はもとより、北方領土の国後・択捉島にもおよびますが、特に阿寒国立公園内の観光道路開設には関心が深く、ルベシベ〜阿寒湖畔は大正十三年、阿寒湖畔~北見相生は大正十四年に完成させ、明治初期からの懸案でありました釧路〜網走が全通し、また足寄〜阿寒湖畔も昭和六年に全通させたのでした。

氏は自動車時代を予測し、道路大改修の予算獲得に並々ならぬ努力を払い、大正十四年には舌辛〜阿寒湖畔、同十五年に川湯〜弟子屈間、昭和二年には川湯〜北見付近と弟子屈〜屈斜路間などの大改修と新設工事を行っています。

そしていよいよ永山峠と言われた阿寒横断道路の建設に着手するため、自動車による遊覧周遊コース設定を内容とした「永山プラン」を発表しました。

そのプランの趣旨は「阿寒湖に限定した小規模の国立公園候補地を、摩周湖と屈斜路湖を含めた大国立公園に改すべきであり、そのためにはこれを回遊する道路の建設が必須の条件である」とし、そのために「摩周湖〜弟子屈温泉間、弟子屈温泉〜阿寒湖畔間に新道を建設し、さらには、これを延長して阿寒湖畔〜茂足寄間を切り開けば、既に完成した道路を利用して完全周遊が可能となり、この建設なしに国立公園の指定実現も、将来の観光発展も有り得ない。」というものでした。

しかし、当時は昭和大不況期であり、観光道路建設など不可能な時代でしたが、氏の行動力と強引さは、北海道庁をてこずらすこととなり、後半生に大きな影響を与える結果となりますが、昭和六年にはすべて完成を見ることになります。

阿寒横断道路建設調査は昭和三年に行われ、第一工区の弟子屈付近と第四工区の阿寒湖畔付近の工事は直ちに昭和三年から着手し、翌年の昭和四年には第二、第三工区を着手しましたが、大樹海と急斜面と断崖絶壁が続く工事で難工をきわめ、当初十三万円の予算が、結果的にはその倍の二十数万円もかかってしまいましたが、ついに三年がかりの難工事の末昭和五年に開通しました。

これにより、何日もかかった観光は一泊か二泊のコースとなり、「阿寒国立公園」の発展にはかり知れない効果を発揮することになりました。

しかし、永山氏は国立公園調査委員会が来訪(次号で記述)し、これらの道路が本当に効果を発揮する時には転任しており、昭和二十年五月故郷鹿児島で死去しますが、まさに「阿寒国立公園繁栄の父」と言えます。

近藤直人

近藤直人氏は会津出身で北大林科卒。昭和三年から十年まで釧路営林区署長を勤めた人物です。

氏は北海道の冬季観光振興を図るため、昭和二十四年から始まった「札幌雪まつり」の創始者でもあり、昭和二十五年国立公園に指定された支笏洞爺国立公園誕生の真の仕掛け人、また十勝の耕地防風林造成の先見で、現在十勝平野の風物詩として縦横に連なるカラマツの防風林は帯広営林署長時代に苗木を育てたものです。

このように林政と観光に大きな影響を与えた人物でした。

氏が釧路に赴任した昭和三年は釧路保勝会(次号で記述)が「阿寒国立公園」実現を目指し次第に運動が活発化した時であり、また「永山プラン」による横断道路着工した年でしたが、当時の釧根原野はまだまだ辺境未開の地であり、氏の仕事は少しでも早く開拓を進めることでした。

その実現を図るため「中央から要人を招致し実情を見せて予算を獲得すること。」であり、そのためにも「阿寒国立公園の指定を実現すれば政界・財界の要人が多数訪れることになり、その時に根釧原野の現状を訴え、予算獲得を有利にしよう。」と考えたようです。

行動派の氏は対応が早く、得意の旧式な暗箱カメラをかついでPR用風景写真の撮影を進め、阿寒国立公園区域の山岳や秘境を踏破し、地質や植生までも詳細に調査しました。

カメラの腕前も良く、釧路勤務の事跡を見ると、大正五年には層雲峡で風景写真の第一号と言われる写真を撮影しており、また大正八年から十二年までの間然別湖を撮影 PRに努めた人物でもありました。

折しも昭和六年の国立公園調査会委員の来訪の際には、現地説明の第一人者として案内役を勤めており、また当時の釧路新聞には「阿寒国立公園候補地巡り」を十二回にわたって寄稿連載しています。この連載は観光モデルコース・所要時間・山岳・湖沼・地質から樹木・草花の名称に至るまで詳細に書かれており、現在のバスガイドテキストの原典にもなっています。

また、調査会委員一行に血圧などの予防によく効くというふれ込みで、シャクナゲのステッキを作りプレゼントしたり、阿寒湖ではウグイ釣りを体験観光させるなどアイディアマンでもありました。

氏は昭和九年「阿寒国立公園」が誕生した年に営林区署長を若年退職し、札幌観光協会職員に大変身することになりますが、まさに「阿寒国立公園PRの父」と言えます。

このように「阿寒国立公園」候補地から指定に至る経過の中で多くの人々の支えによって実現したことを忘れてはなりませんが、特に欠かすことの出来ない三氏を「三恩人」としてクローズアップさせ、その業積を簡単に記述しました。