
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(19)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
国立公園と文化活動等
阿寒国立公園史の中での文化活動は至極多彩であり、観光PR面と密接に関係のあるものから映画、文学、音楽、美術、舞踊、自然保護活動などが上げられますが、この公園小史で触れられなかった部分を中心に紹介したいと思います。
戦後になっての阿寒国立公園を取り巻く文化活動は目を見張るものがあります。
昭和二十二年から昭和二十三年ごろには阿寒観光リーフレットの発行や阿寒写真展、 観光郷土工芸展などが精力的に開催されています。
また昭和二十六年には片岡新助氏(元釧路市立博物館長)が労作「国立公園阿寒一巡り」を発行、昭和二十九年には数々の阿寒国立公園ポスターを手がけた佐々木栄松氏が「阿寒国立公園漫画案内」を発刊するなど、国立公園を紹介する文献が次々と出版されました。
昭和二十五年には郵政省が「阿寒国立公園切手」を発行したのも特筆すべきことで、二円、八円、十四円、二十四円切手のほかセット売りもされ、七百九十二万枚が発行されました。
自然保護活動面ではマリモの壊滅状態を保護するために昭和二十五年松岡義秀氏を会長し
た「マリモ愛護会」が発足、その後昭和二十六年マリモは国の特別天然記念物に指定されますが、昭和三十九年には愛護会を解消し新しく「マリモ保存会」が設立されました。また昭和四十年には阿寒町で「タンチョウ「鶴愛護会」も発足され積極的な保護活動がなされ、内外に高い評価をうけています。「君の名は」の威力阿寒国立公園史上最初の本格的な映画は昭和二十五年から二年がかりで製作した「生きている神秘境」全二巻です。
この映画は観光PR映画で、製作は松竹系の和田プロダクション、後援会長浅川正一氏、副会長金子重徳氏と丹葉節郎氏、完成間ぎわに松竹撮影所の火災で一部焼失してしまうなど大変苦労されたようです。
次いで昭和二十八年には科学映画「阿寒湖のまりも」 カラー全二巻が製作されました。
劇映画では昭和二十五年の「愛と憎しみの彼方へ」と言われており、そのロケに駆けつけた三船敏郎氏や池部良氏が第一回マリモまつりを見学していたことは前編で触れました。そのほかに「夏子の冒険」や「我が恋はリラの木陰に」などが登場しますが、阿寒国立公園を全国に名を馳せたのは何と言っても「君の名は」でした。
昭和二十八年ごろ、毎週木曜日の午後八時三十分からNHKラジオで放送され、ご存じのとおりすごい人気を博しました。物語りも佐渡、東京から北海道へと展開し美幌や阿寒国立公園が登場してきます。
映画化のために昭和二十八年九月二十八日、美幌峠でロケーションが開始されました。 その時のスタッフは、監督大庭秀雄、真知子を岸恵子、春樹~佐田啓二、アイヌ娘ユミ〜北原三枝、その他で硫黄山、摩周湖など景勝地を豊富に撮影されました。
この映画による阿寒国立公園知名度アップの威力はものすごかったようです。
文芸を支えた人々
最も古いのは松浦武四郎のもので、安政五年の「久摺日誌」の中の「四月六日摩周湖にて一首」として、「ゆたかにも岩の枕まきてしるこれぞゆるがぬ御代のためしと』と摩周湖を歌っています。また川湯、弟子屈屈斜路湖、阿寒湖でも歌っています。
大正時代に入って大正の文豪大町桂月は大正十年夏に川湯を訪れ、硫黄山麓一帯とひろがるハイマツの群落の美にうたれ漢詩を色紙にしたため、また摩周湖にも訪れ漢詩でその美を現わしています。更には川湯、屈斜路湖、釧路川、阿寒湖を漢詩に現しています。
昭和に入り昭和四年に来遊しした佐藤惣之助は摩周湖の詩を残しています。昭和六年八月に漢詩人国府犀東が摩周湖を讃えて詠み上げています。同年川湯温泉を訪れた歌人山下秀之助は「川湯にて」と題して二首を詠み、昭和二十四年には短歌集「原生林」の中で四首を発表しています。また大正、昭和の俳壇に名を残した高浜虚子が二句を残していますが、昭和八年八月二十一日から銷別温泉に二泊逗留、錯別川原を散策し、野性のフキをとって川原で炊さんを楽しんだ折りに画帳にしたため、聖林荘に残した句がありますが、昭和二十九年文化勲章を受けた記念に句碑が建立されています。昭和九年小杉放庵が来遊し、摩周湖の景観に圧倒され歌二首を残しています。 時期は不明ですが大阪の詩人藤村雅光が詩集「葡萄の房」の中に「摩周湖」という詩を掲載し、同じく俳人中村草田男が「青木温泉」と題して句を詠んでいます。
アララギ派の中堅詩人佐藤佐太郎は昭和二十二年歌集「立房」摩周湖十八首ほか数首をおさめ、阿寒湖を主題にした詩二首も残しています。革新的な俳人として知られ、北海道文化奨励賞を受けた俳詩「氷原帯」主宰の細谷源二は二句を残し、摩周俳句会の発起によって、二つの句碑が建立されています。 昭和二十四年短歌詩「原始林」の中で戸塚新太郎が作品一首を発表・しています。 摩周湖第一展望台にある詩碑は昭和二十七年秋、永平寺(福井県曹洞宗本山) 貫主熊沢泰禅師が摩周湖を訪れ、その美しさに感動して歌った漢詩で、昭和三十七年詩碑を建立されています。昭和二十四年十一月に第一回北海道文学賞を受けた短歌誌「新墾」主宰の歌人小田観蛍は昭和二十八年に摩周湖、 屈斜路湖、硫黄山を訪れ、数首を歌壇に発表しています。
短歌結社「あじさゐ」主宰の歌人渡辺義孝は摩周の美しさを愛し、来遊しては多くの短歌を詠じ、「北海道のうた」を出版その巻頭のうた「摩周のうた」を掲載、昭和四十一年に歌碑が建立されています。 その他鷲津毅堂、伊藤柏翠、石川啄木、前田正名、平福百穂、西村真琴、山口青邨、 上林白草居、河東碧悟桐、木下春影、古瀬吟楼風、安田博、等々多くの文人が阿寒国立公園を表現しています。
何と言っても更科源蔵氏の存在は大変大きいと言えます。「北緯五十度」「至上率」、詩集「種薯」「凍原の歌」「河童暦」、随筆集「コタン生物記」「北方動物記」、「北の国の物語」「牝牛モグ」等の童話集、弟子屈町史他各郷土史、アイヌ文化研究等々数々の幅広く崇高な業績を残しています。
小説の中では第三回芥川賞作家鶴田知也が「摩周湖」を雑誌「文芸」に発表され、昭和二十二年中山義秀が「迷路」、昭和二十五年八木義徳が文芸春秋は「摩周湖」を発表、昭和二十九年原田康子が「サビタの記憶」、昭和四十年更科源蔵「熊牛原野」、昭和四十二年木山捷平「斜里の白雪」を発表、また昭和四十九年渡辺淳一が「阿寒に果つ」を発表しています。
紀行文では昭和九年に登山家であり紀行文章家として有名な河田楨がカムイヌプリ登山の様子や川湯、錯別温泉等について「旅に住む日」に掲載しています。 同文で猪谷六合雄が「雪に生きる」、 河田楨と同じころ来遊した林芙美子は「摩周湖紀行」で摩周湖を文にしています。
随筆の中では画家上野山清貢が昭和十年から釧路湿原の鶴や摩周湖を描きに来ており、その様子を「北海道摩周湖」と題して随筆しています。また作家伊藤整は昭和十三年に詩人春山行夫と二人で来遊し、その時のことを随筆「四季」で摩周湖に触れています。同じく昭和十四年には詩人であり鳥類研究家である中西悟堂は熊牛原野の鳥をテーマに雑誌「野鳥」に発表、その後雑誌 「北方風物」に「弟子屈の夕」なる名文を発表しています。
永田洋平氏の「北海道動物記」や「北方動物記」、前田一歩園の各種学術研究等は公園の貴重な研究財産と言えます。演劇では昭和三十九年阿寒国立公園指定三十年記念にあたる年に阿寒高等学校演劇部の劇「カムイヌプリの煙は消えず」は深い感動をあたえました。
紙面の関係上、詳細な民話・伝説、アイヌ文化、音頭・小唄・歌謡等々の分野は別な機会に触れさせて頂きます。
