
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(18)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
環境庁の現地調査は?
種市氏は「阿寒国立公園指定四〇周年記念誌」(阿寒国立公園広域観光推進協議会昭和48年10月8日発行)中「阿寒国立公園物語」の後段で次のような見解を明らかにしています。
「17 阿寒国立公園名称問題・・・・・・観光が次第に本格化してきますと、国立公園の名称や公園区域等について、いろいろ議論が出てきました。今後もこうした問題は起きてこようと思いますので、私なりの考えで、一つのスジを通してみたいと思います。
まず、阿寒国立公園を阿寒摩周国立公園に改称したいという議論ですが、これは阿寒国立公園観光協会発足当初から問題になっておりました。昭和26年ころにも観光関係者の反省会で、弟子屈の内越三郎氏から提案されています。
昭和30年の阿寒国立公園観光協会総会では、丹葉節朗氏が提案者となって本格化します。協会の幹部であり弟子屈、阿寒両町の利害に直接関係しない、公平な立場に立つ有力者の発言ですから迫力もありました。
理由は阿寒国立公園と言うことでは、阿寒湖を見ればすべてが足りるという印象をすでに与えている。 阿寒町と弟子屈町では、景勝地としては互角であり、公園面積では弟子屈町の方が広い。従って阿寒摩周国立公園と改称すべきである。という論旨でした。氏は国立公園審議員石神氏にも相談しておりますが、こうした要望は各地にもあり、これを認めた場合は他に波及するとのことでそのまま現在に至っております
ではなぜ最初から阿寒摩周国立公園としなかったのでしょうか。これはすでに見たとおり指定当時は阿寒湖が本命であり、摩周湖、屈斜路湖は猛運動の結果、指定地域にようやく入ったため、公園名が阿寒国立となつたのです。また昭和九年に指定された国立公園のうち、複数の名称となっているものに、「雲仙、天草」「霧島、屋久」の両国立公園がありますが、これは天草や屋久が、戦後になって新たに編入したために複数になったのです。従ってこの問題は、今後どのように議論が出ても、どうにもならないような気がします。その分だけ阿寒湖畔の責任が重くなって行くことでしょう。
また、弟子屈を国立公園に編入しようという問題も昭和2年に阿寒国立公園観光協会で弟子屈町から出されておりますが、これも既に見たとおりで、昭和8年の国立公園指定地測量の際、自から権利を放棄しており、今後においても解決困難な問題と思われます。弟子屈町の方々には申しわけないような書き方になってしまいましたが、やはり過去の事実。特にスタート時点が将来を拘束する場合が多いので、今後参考までに記録しました。」
としています。
この記念誌が書かれた昭和49年までには、その他に昭和33年「富士箱根」が「富士箱根伊豆」に、昭和31年「十和田」が「十和田八幡」に、昭和38年「大山」が「大山隠岐」などが変更を果たしていますが、いずれも公園区域の拡大であったため、種市氏は「既に公園区域には摩周地区や屈斜路地区が入っており、公園名を追加し名称変更するのは困難である」とした見解が出されたものと考えます。
当時の各国立公園の名称変更の経過からいって、この見解が出されてもやむを得ないのかもしれません。
しかし、昭和60年「阿蘇」から「阿蘇くじゅう」の名称変更は、今までのそれとは違って、もともと「くじゅう」 地区が入っての指定でありながら、単なる公園区域の拡大はあったものの名称変更がなされたことから、決して種市氏の見解が現在に適応した考え方にはなっていないと考えられます。
しかし、種市氏は当時、釧路観光連盟事務局長の重責を担っていたことから『・・・・・私としても一つのスジを通してみたい・・・・・』とあるように、勇気ある発言であり、また「阿寒国立公園物語」の原稿を書き上げる当時としては、名称変更がかなり話題になっていた時期であり、どうしても見解を明らかにせざるを得ない状況に迫られていたのではないかと感じざるを得ませんが、平成3年に亡くなってしまった今、新たな見解を聞くすべがありません。
陳情書に難色
左記の陳情書(案)は昭和6年6月30日にホテルニュー子宝で開催された「阿寒国立公園広域観光協議会」定期総会で議案として出されたものですが、当時協議会の会長は横山町長で、事務局も弟子屈町役場商工観光課に置かれており、名称変更の機運の高まりを受けての提案であったようです。
陳情書の内容も非常に説得力のある内容となっており、いわゆる「阿寒国立公園」の主要五町村の承諾により、悲願が達成されるための一番早道であるとの判断からと思われます。
歴代の町長の中でも、関係町や関係団体等に対し、具体的に議案として提示したのは初めてであり、精力的に名称変更推進を図った町長でもあります。
結果的には、注目の阿寒町長としては「良い」との見解であったものの、「町議会や地元のコンセンサスが必要である」との見解が示され、一方美幌町からは、「地域エゴ的であり、進めるのであればもっと広域的な会議の中で議論すべきだ」との見解が出され、審議がまとまらなかったようです。
陳情書
阿寒国立公園の名称変更について
日ごろ阿寒国立公園の保護と管理運営に絶大なるご協力を払われまた当町の観光振興に深いご理解と、 適切なるご指導ご鞭撻を賜わりまことにありがたく厚く御礼申し上げます。
おかげさまで阿寒国立公園も、 昭和9年12月の指定後50余年を経過し、 その特徴である原始景観を保ちつつも、国民の保健休養の場として多数観光客のご利用をいただき、当町最大の産業として恩恵を受けております。 これまた貴台はじめ関係の皆々様の長期的視野に立ってのご指導のおかげと併せて感謝申し上げます。
さて、標題の阿寒国立公園の名称変更につきましては、国立公園指定直後からその萌芽があり、 弟子屈町民にとりましては数十年来の悲願となっておりますので、次にその経過を略記いたしますので、いろいろと困難を伴うこととは存じますが、 「阿寒・摩周国立公園」と改称賜りますよう陳情いたします。
記
1 阿寒国立公園の命名について
このことにつきましてはご高承のとおり、 大正10年内務省衛生局におかれて発表された国立公園16候補地の中に 「阿寒湖を中心とする国立公園」が含まれていたことに要因があるものと思料されます。その後昭和3年から同6年の間に、摩周湖及び屈斜路湖を候補地に含めるため地元の運動が高まり昭和6年に田村剛博士ならびに国立公園調査会委員各位の現地調査を賜り、その結果地元の要望どおり公園区域は拡大されましたが、 公園名は阿寒として告示されました。
2 公園名称変更要望の萌芽
国立公園指定3年後の昭和12年、阿寒湖の所在する舌辛村が阿寒村と改称したため、当時の弟子屈村民の間に公園名称変更運動の芽生えはありましたが、戦火の拡大により具体的な要望はなされませんでした。3 戦後の公園名改称の動き
戦後日浅い昭和28年、弟子屈町開基50周年を記念して、町名を摩周に、国立公園を阿寒摩周に改称しようという運動が起こり、以後ほぼ10年ごとに同様の運動が展開されております。特に昭和47年から4年間にわたり毎年継続して実施しておりますが、これは阿寒国立公園指定区域の56%が弟子屈町内にあり、知名度においても阿寒湖に遜色のない摩周湖や屈斜路湖が所在するのに、総てが阿寒町に印象づけられてしまうという町民感情と、観光振興のためにも是非改称したいという悲願からでした。
4 最近の改称運動について
公園名改称にあたり、当町内において一貫してその実現を推進したものは、阿寒と同時指定の雲仙には天草が、霧島には屋久が追加されて複数となり、新指定のものには、 利尻・礼文サロベツ等、三つの地名を冠するものさえあるのに、なぜという疑問と期待でした。幸い昨年に至り、環境庁ご当局ならびに自然環境保全審議会のおはからいにより、当初より一部指定の久住地区、ならびに昭和40年に編入した九重山の二つを包含して、新規編入時の改称にかかわりなく、「阿蘇くじゅう国立公園」と改称する途を開かれました。
これはまことに歓迎すべきものであり、改称を期待しつつ昭和55年には弟子屈を冠した観光協会と旅館組合名を摩周と改め、昭和57年には農協が、更にはハイヤー会社が摩周を冠する等、大きな期待をもって待望していた町民に力を与え、今回の公園名改称の陳情となったのであります。
5 公園名改称についての要望
公園名については阿寒国立公園が阿寒・ 屈斜路の二大カルデラ地帯によって成因しているため、「阿寒・ 屈斜路国立公園」と改称されるよう、伏して陳情申し上げます。なお、この名称変更につきましては、 阿寒国立公園に関連する五町が組織の阿寒国立公園広域観光協議会総会にはかり、 その賛成を得たことを申し添えます。
昭和 年 月 日
殿
阿寒国立公園広域観光協議会長 横山 徳住
以下 関係機関団体等連署
