弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載

阿寒国立公園小史(3)

てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫

「阿寒国立公園指定運動の広がり」

国立公園指定の運動は全国の候補地関係市町村を中心に展開され、釧路地方も釧路、舌辛、弟子屈の有志等が保勝会設立に立ち上がり、昭和二年十月に守屋支庁長、永山土木所長、樋口警察署長、酒井釧路市長、茅野釧路市議会議長、永根営林区署長等が出席して釧路保勝会が設立され、昭和6年3月には釧路商工会議所の国立公園指定方陳情がなされ、また衆議院請願委員会では「雌阿寒岳、屈斜路及び摩周湖付近一帯を国立公園指定の請願」が採択されるなど着々と気運が高まってきました。

阿寒国立公園期成同盟会の発足

国立公園候補地 阿寒

昭和六年六月十二日「国立公園調査委員」を招待し阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖を見てもらい国立公園指定を確実なものにしようという会議 「阿寒国立公園地域候補地指定に関する協議会」が釧路支庁会議室で開催されました。この会議には次の方々が出席されました。

道庁側 一条、三国の両属
支庁側 吉村支庁長、谷川・高橋両課長、若林・植草両技手
町村側 子野日厚岸町長ほか支庁管内各村長
土木 高田所長
警察 坂巻次席
市役所 佐藤市長、菅野課長
札鐵運事旅客係倉田書記、釧鐵恩田・飯田両書記
関係地各旅館主、各新聞記者等
約五十名が参加しました。

議題は次のとおりでした。
一、各観光地の案内に付順路決定の件
二、歓迎方法の件
三、自動車連絡軌道等手配の件
四、食事宿泊に関する件
五、案内説明パンフレット印刷物等の件
六、その他
吉村釧路支庁長あいさつの後、道庁商工課一条属が座長になって進められました。

午前十時から始まった会議は午後からも引き続き伊藤道議、藤原元市議も出席して行われました。

この会議の結果、視察順路等が決定し、さらに釧路新聞遠藤社長の動議によって釧路保勝会の別動隊として仮称「阿寒国立公園期成同盟会」を設置することとなり、また運動経費については支庁長及び市長・町村長等が別室で協議し、釧路市より三千円、釧路支庁管内より二千円合計五千円としました。期成会の正式名称や規約等については釧路支庁長及び釧路市長に全部一任することとし、午後三時半ごろ閉会しました。

その後、吉村支庁長を中心に会則草案が検討されましたが、釧路市会協議会では、「官僚的色彩が多い」とか、「阿寒国立公園では名称が小さすぎる」という意見が出され会則について賛否両論が出されたようです。

結果的には次のようなこととなりました。

・名称
阿寒国立公園期成同盟会

・役員
会長 北海道庁長官
副会長 釧路市長及び釧路支庁長
評議員 釧路市助役、 釧路支庁管内町村長及び嘱託有志者
幹事 釧路市役所及び釧路支庁の関係事務吏員で会長が委嘱
事務局 釧路支庁内

このようにして、国立公園調査委員の招待体制は確立され、具体的な準備に入りました。

早速、期成同盟会では調査員説明用として「国立公園候補地(阿寒)」を作成し、また北海道庁も「北海道二於ケル国立公園候補地調査概要」を作成しています。

国立公園調査委員の招待は最終的に決定し、吉村釧路支庁長はコースの再勉強や高田土木所長は道路の補修と大忙しの状態だったようです。

田村博士の来町実現

しかし、頼りの綱ともいえる田村博士が日程と健康の都合で来釧することが出来なくなりました。期成同盟会としてもこの事態を重く見て、「博士にだけは是非来釧し、博士の知らない摩周湖や屈斜路湖の良さを知ってもらい、この地帯を国立公園に編入させなければならない。」と必至の懇願を続けました。

その結果、田村博士が青森市で行われる国立公園協会支部発会式に参列する機会に急遽来釧することとなり、昭和六年六月二十六日国立公園調査委員一行より一足早く来釧しました。

この田村博士に対する歓迎ぶりは大変なもので、近藤営林区署長が直別まで出迎え、釧路からは佐藤市長、吉村支庁長、近藤営林区署長、阿部運輸事務所長、吉島タイムス支局長等という最高スタッフをそろえて同行し、弟子屈村長や舌辛村長をはじめ村民有志総出動という歓迎だったようです。また足が不自由だった博士ではありましたが、勢力的に視察し、歩行困難な場所では地元民の方々が背負って景勝地を案内したようです。

六月二十六日午後0時四十二分弟子屈駅に到着し、直ちに自動車四台を連ねて摩周湖に向かい、折しもこの日は珍しくカムイヌプリの全容が見え「良い山ですね」と感想を述べており、その後、硫黄山で数枚の写真撮影をして、川湯の原始林を通り屈斜路湖畔にある池の湯で下車湖面を展望しました。次いで和琴半島では賑やかな野天風呂や丸木船などをカメラに収めて五時四十五分鐺別温泉に到着しました。

博士は国立公園編入については立場上言明を避けていたようですが、摩周湖及び屈斜路湖に対する印象は強烈なものがあったと推察されます。

次の日は阿寒横断道路を経て阿寒湖畔に立ち寄り、二隻のボートに便乗してウグイ釣りを楽しみ雄阿寒ホテルに宿泊し二十八日帰京しました。博士の「阿寒」の印象を「阿寒に対する私の感情は初恋の婦人のようなものである。」と絶賛し、「偉大な景勝地を破壊しないようにしてほしい」と述べています。

このようにして、田村博士の来釧実現により、期成同盟会もほっと胸をなで下ろしたことと思います。また本命の国立公園調査員来釧約一ヶ月を前にして、調査委員の中でも国立公園指定に関して最大の発言力のある田付博士の来釧は、国立公園指定に向けてさらに自信を深め、国立公園調査員の受入れは最後の駄目押し策として準備にも力が入っていたものと考えます。

ついに国立公園調査委員が来町

いよいよ国立公園調査委員の登場となります。調査委員一行、メンバーは欄のとおりで、とにかく超一流の大物ぞろいでした。 その他、道庁からは関屋拓殖部長、林地方林課長、三国林務課属、一条商務課長属、また札鉄からは馬場旅客係長や倉田旅客係書記等が随行しました。それを迎える期成同盟会も大変なもので、佐藤釧路市長は札幌まで出迎え、吉村釧路支庁長、林田釧路市議会議長、菊池道議や期成同盟会幹部数氏が池田まで、鉄道運輸の恩田・飯田両書記も案内役として出迎えるという力の入れようです。

ここで昭和六年七月十八日発行の「釧路新聞」 特派記者の掲載記事を紹介しましょう。

<国立公園調査委員一行は午前十時五分(十六日) 釧路を発して川湯に向から、天候いよいよ快晴且つ暑気加わり車内の煽風機は頻りに涼を造る有様、車中は研究に漫談に花が咲いて頗る賑やかーー弟子屈近くになるや雄阿寒の秀峰が七八合目から下を現はし「アレだアレだ」と一斉に眼を向ける、美留和を過ぎると両側の原生林が濃緑をたたへ眼も覚むるばかりだ、藤村男爵は後部車からべビーフヰルムに収める、鷹司公も撮影しながら藤村男爵に「よく出来ましたら持って上がります」と、所がこの謙遜の鷹司公は写真の大名手なのだ> (注・・・原文は旧漢字・ふり仮名付)というように、こと細かく国立公園調查委員一行の行動を描写しています。

午後一時半川湯駅に到着し、数十台の自動車で硫黄山、川湯温泉、仁伏温泉、モーターボートに分乗して中島付近経由で和琴半島を視察し、また自動車で摩周湖を視察しています。

このコースは事前に期成同盟会で練ったものですが、 田村博士のアドバイスに寄るところが多かったようです。

宿泊先は弟子屈の丸米旅館、青木旅館、本山旅館の三旅館に分宿しています。

招待した国立公園調査委員
一条実孝・候爵 貴族院議員、国際観光委員、国立公園協会委員
鷹司信輔・公爵 貴族院議員、国際観光委員
稲田昌植・男爵 貴族院議員、国際観光委員
藤村義朗・男爵 貴族院議員、国際観光委員、国立公園調查委員
赤星陸治・三菱地所部長、国立公園調査委員
本多清六・東京帝国大学大名誉教授、国立公園調査委員、国立公園協会副会長
正木直彦・東京美術学校長、国際観光委員
坂田幹太・国際観光委員
勝田銀次郎・国際観光委員
阿部房次郎・国際観光委員
新井爾鉄道省国際観光局長、同委員会幹事
森本美夫・国際観光局課長
高橋蔵司・国際観光局事務官
市川八雄・国際観光局属
山中忠雄・ジャパンツーリスト主事、国立公園協会主事