
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(8)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
屈斜路湖の湖底地震の発生
時代的には暗いムードが漂いはじめた昭和十三年五月二十九日午前一時四十二分屈斜路を中心とする地震が発生しました。
震源地は屈斜路湖の深さ二十キロメートル地点と推定され、マグニチュード六・〇で直下型の地震でした。
当時の様子を釧路新聞(昭和十三年五月三十日刊行)は次のように報じています。
「阿寒国立公園の強震・湖畔を除く各温泉の湧出止まる・死者目下の処一名(見出し部分)。
二十九日午前一時四十三分頃、前夜の防空演習にぐっすり寝込んだ市民を大揺れの地震が襲い、二時頃まで絶えず揺りかへして恐怖に叩き込んだが、夜が明け放たれると、震源地と見られる阿寒国立公園地帯に、強震が残した魔の爪跡は不気味な亀裂となり、或はまだ一瞬のうちに地上の面貌をぞろりと変えてさらけ出した、即ち弟子屈の温泉旅館に破損が相次ぎ、温泉も一時は湧出が止まるなどの騒ぎを煮起、更に震央地と見られている和琴半島附近は最も強烈な揺れにあい、家屋は倒壊、幼児圧死の惨劇もあった、一瞬のうちに面貌を変えたのは風光明媚に謳われる和琴半島から不気味な白煙が噴き出し住民を驚かせている、鉄道の被害も南弟子屈、上札鶴間に七ヶ所の線路沈下を現出、運転不能に陥り一時はダイヤも混乱した」「大小の陥没穴から泥混りの熱湯噴出・和琴半島は濛々たる蒸気(見出し部分)。
突如ゆすった魔の震撼の過ぎ去った後国立公園屈斜路湖畔、池の湯、和琴半島に大小の陥没穴をさらし、沸き出す熱湯は泥を誘って泥海となり和琴半島は蒸気に覆はれ風光明媚の公園は一変して地獄の図絵となった仁伏を経て屈斜路湖畔を巡る池の湯は道路と湖水の間約千米に亘る草地の至る処に無数の陥没穴が出来、熱湯が沸出し、一体は泥地となって目も当られぬ惨状を呈し、更に和琴半島に進むと半島の咽首たる砂地(野天風呂と売店のある間)に一間四方の大陥没が数ヶ所起沸きあげる湯と砂がこきまざって泥湯となり湖水に流れ出す始末、更に半島の突端は地震と共に三十数メートルも水蒸気が吹きあげ半島を覆う千古の木をしのいでのぼっている、和琴美幌間の観光道路には樹木は倒れて道をふさぎ処によっては三尺から陥没した道路から地滑りして完全に道路を阻んでいる。」
直下型の地震であったために被害も甚大であったことがこと細かく記載され、その惨状が伝わってきます。



各種学術報告
北海道帝国大学(現北海道大学)理学部鈴木醇博士の報告では次のように述べています。
「昭和十三年五月二十九日午前一時四十二分屈斜路地方に地震が起こり、地震断層、亀裂、山崩れ、陥没、沈降等の地形変動を起し、人畜、家屋道路等に担当の被害を及ぼした。地震そのものは、比較的局部的なものであったが、従来この地方には地震がほとんどなかったので、この地震は学術上より見ても意味深いものであった。
種々の地変のうち、断層、亀裂、山崩れ等は美幌峠北西の古梅より弟子屈温泉に至る北西南東の方向上に生じた。とくに著しいものは丸山、ヌプリオンド山間において、水平移動による二・四メートルの道路のくい違い、尾札部、和琴半島において地震断層により東北側三十糎古亀の相対的落下、丸山及びヌプリオンド山の山崩れなどである。
また東北側屈斜路湖岸においては沈降、陥没がおこり、一時的に新温泉の湧出、湖水の攪乱等をみた。この地震に伴う本地域の火山地質構造線と考えられる東北-西南の方向でなく、むしろこれに直交する。北西-南東の方向に被害が出現したことは、注目すべきである。」
また、田中館秀三氏の発表した「昭和13年屈斜路地震1」及び「昭和13年屈斜路地震2」では次のようにふれています。
「6月1日より6日まで現地調査をなし、又7月下旬より8月初旬に至りて主として屈斜路湖の調査をせなり。」とあり、地震発生し余震が続く中、3日後には現地調査に入り生々しい状況を専門家の立場で報告されており、特に興味ある点は、その報告書の中で「湖水地震とほぼ同時に和琴温泉附近にては約1m湖水隆起・・・・・・、 又ポンドの附近にても約現水位よ2尺高く波は押し寄せ小舟を引き行けり、...水の差し引きは和琴半島にては朝まで続きたりと云ひ、エントコマップにては早期2〜3尺波押しよせ居たりと云う、ポンドにては朝9時まで8寸位の高さに差し引きありしと云う。」
とあり、湖水津波も発生したことが報されています。

また「昭和十三年五月二十九日屈斜路地震調査報告(昭和十三年六月二十一日地震研究所談話会発表) 津屋弘達著では弟子屈村の被害状況を弟子屈村役場調として右表のように発表しています。
この地震の発生によって屈斜路湖の水質等の変化により、多種魚群の生息地であった湖も皆無に等しい状況となりました。
このように、屈斜路直下型大地震は死者を含め甚大な被害をもたらし、阿寒国立公園指定以来最大の危機といえます。
前述したように時代は太平洋戦争へと向かう時期であり、防空演習の最中の地震であっただけに、あたかも大戦の予兆であるかのような最悪の出来事であり、弟子屈町史上でも最悪の悲惨な出来事の一つではなかったかと考えます。
