
弟子屈町広報誌「広報てしかが」平成6年6月号〜平成8年3月号に掲載
阿寒国立公園小史(9)
てしかが郷土研究会 会員 小林俊夫
行楽から錬成へ転換
昭和十二年七月、支那事変がおこり次第に日中戦争へと拡大するにつれ、聖戦の美名のもとに更に軍国主義化が進み、次々と戦争体制を確立するための国家政策が打ち出されます。
・昭和十二年〜国民精神総動員中央連盟創立
・同十三年〜国家総動員法、物資総動員計画施行、産業報国連盟創立
・同十四年〜大学生の軍事練実施、米穀配給統制法、国民徴用令公布
・同十五年〜陸軍統制令施行
・同十六年を大政翼賛会発足第二次世界大戦突入等々
このように悲惨な結果となる戦争が推し進められる中、国立公園の魅力に親しむ余裕など全くなくなっていく世相となり、当然「観光」や「行楽」といったことばは姿を消すことになります。
行楽旅行は「厚生旅行」へ、そして国民精神と健康を保持し聖戦を勝ち抜くための「錬成旅行」へと変身していきました。
戦時体制であるため、物資の不足による遊覧バス運行の抑制により、歩くことが美徳とされ徒歩コースの開発や長距離の行軍が新聞紙上に大々的に報道されましたが、昭和十九年本土決戦ムードと鉄道乗車券発売割当制の実施により、それらも完全にストップしてしまいます。
昭和十九年の各旅館の新聞広告した内容を見ると、その当時の世相がわかります。
・勝ち抜くためには先ず健康 川湯紅葉館
・健康は温泉から 川湯寿楽館
・銃後は保健 川湯第一ホテル
・謹啓
創業以来皆々様の格別の御引立を賜り洵に難有御禮申上候此度大日本醫療團に譲渡し廃業致す事と相成候に就而永年御愛顧賜りし各位に衷心より御禮申上候乍失禮以て紙上御挨拶申上候
昭和十九年二月二十日 川上郡弟子屈 温泉旅館 長生閣
このように、錬成目的のために旅館を譲渡した長生閣の他、川湯第一ホテルは札幌鉄道局健民修練所、錯別温泉桜花園は釧路鉄道管理部保健指導所、仁伏温泉湖畔御園は営林署の錬成施設にそれぞれ買収されました。
このように、観光客誘致に大変熱心だった鉄道も、次第に抑制策がとられ、昭和十四年には季節的な団体割引が中止され、同十五年には遊覧旅行の抑制と観光乗車券割引停止が実施されましたが、スキーだけは国民体育向上のため運賃割引や広く宣伝するなど特別扱いとなっていました。
北海道庁では昭和十四年全道小中学校に、心身鍛練のためスキーを正科の授業とするようスキー指導要項を通達するなど、確実にスキーは底辺を広げ、またその技術も進歩していき、藻琴山ヒュッテの開設や美羅尾山の回転コース開設へと発展していきました。
また昭和十四年に始まった川湯ポンポン山スキー行は最も人気のあったものの一つで、技術は未熟でも耐久力があれば誰でも参加できるとあって、十五年には釧路実科高等女学校三十一名のツアーも実施しています。
硫黄山付近でスキー大会が開催されたのもよく知られたことです。 釧路新聞 (昭和十四年二月二十八日発刊)には次のように報じられています。
「―"硫黄山"の景勝下に銀盤上の白熱戦―川湯連盟大会の盛況―
釧路スキー連盟川湯支部では十六日午前十一時よりマクアンチサップスロープに於いてスキー連盟結成第一回スキー大会を開催、硫黄山のふん煙を横に眺めながらデイスタンス、滑降、回転に銃後の意気発刺と火の出る熱戦を演じて国民皆スキーデーの大成功を収めたが同スキー連盟では今後も盛んにスキーを普及して部落民の心身鍛練に努めることとなった(川湯通信部)。」
このように徹底した戦争に向けた心身鍛練事業が行われましたが、特にスキー技術の高度な人達のメッカは美羅尾山、摩周岳、雌阿寒岳の三山で、釧鉄でも「スキーの聖地阿寒」として全道にPRしました。
このスキーも昭和十九年ごろになると「戦技スキー」として露骨に戦争に挑むための技術養成となってしまいました。
ハイキングは後に英語追放によって「徒歩旅行」とか「跋渉旅行」等に名称を変えますが、当初は厚生省が国立公園協会と協力して徒歩運動(ハイキング)コースの選定に乗り出し、ポンポン山も人気の高いコースとなりました。
当時の様子を釧路新聞(昭和十四年一月二十六日発刊)では次のように報道されています。
「―ポンポン山を中心に逍遥道路をつくる―営林区署が埋れ仙境紹介―
釧路営林区署では川湯ポンポン山を中心とした観光客逍遥道路を新設し今まで世に知られていなかった常春の仙境ポンポン山と付近山頂から見た眺望の絶かを紹介し阿寒国立公園中の新名所として宣伝することとなった。幅四尺の林内歩道を川湯から硫黄山、ポンポン山を経て屈斜路池の湯に至る五キロ、ポンポン山から岐れて仁伏に至る四キロ、更に池の湯から屈斜路湖畔古潭に至る三十三キロの三線を新設しようと予て申請中であったがほぼ認可されることに内定している。工事は融雪を待って測量を開始し遅くとも紅葉期までには完成する計画であるが埋もれていた仙境ポンポン山もこれで広く世に紹介されることになった。」
現在でもポンポン山は大変人気のあるところですが、広く知られるようになったのは、皮肉にも、戦時下鍛練場所として国が積極的に開発したもので、この時期から広く知られるようになったと考えられます。
非常時の交通機関
支那事変に突入してすぐに影響を受けたのは油を燃料としていた自動車業界でした。
昭和十二年には早くも第一次消費規制が出され、次いで昭和十三年にはガソリン配給制度が実施され、年々配給量が減らされ、業界に破局的な打撃を与えていきます。
当時の全国バス業界に割り当てられたガソリン使用量は次のとおりです。
・昭和十三年 一三七、六八八
・同十四年 八九、〇六七
・同十年 六二、六五五
・同十年 一五、九五九
・同十年 、八〇五
注(ガス事業五十年史より)
このような状況の中で登場したのが木炭バスでした。第一次石油統制後すぐに実用化され、昭和十三年七月には釧路乗合自動車十四台中九台が木炭バスとなり、全国一の普及率を誇りました。しかし、山坂を越える観光バスは急に木炭バスとはゆかず、昭和十三年には早くも客はあってもガソリンが無いという事態が起き、昭和十五年十月一日からは遊覧バスの運行休止の措置が取られ、当然にも観光客の入り込み数は激減することになりました。
一方、石炭を燃料にしていた鉄道の場合は、増大する旅客を抑制しつつ船舶不足により海上から転嫁してくる貨物を含め、重要物資の輸送を確保するという形で輸送統制を強化していきます。昭和十七年ころまでは、観光割引の廃止や行楽旅行の抑制、修学旅行日数の短縮等で乗り切っていますが、 昭和十八年には物資輸送強化のため、旅客急行列車や寝台車の廃止が実施され旅行の制限が開始されました。
そして昭和十九年には「決戦非常措置要項」が閣議決定されたことにより、軍公務優先扱いの乗車券発売割当制が導入され観光・行楽などの不急旅行は完全に締め出されることになりました。
このような状況であったため阿寒湖や屈斜路湖の遊覧船にも当然影響が出ており、昭和十九年頃には、阿寒湖の遊覧船一隻のみとなりました。
貴重な自然のゆくえ
国立公園内では自然を破壊から守るために指定区域内での採鉱を禁止していましたが、国策により昭和十三年に札幌鉱山監督局と道庁の調査や厚生省専門技官の実地検討等が行われ、ある程度の鉱業権設定地区が決められ、阿寒国立公園内での鉱区設定を願い出たものは金五十二件、硫黄十九件、石炭二件、石油二件、合計七十五件となり、結果的には雌阿寒岳と硫黄山の硫黄採掘再開、湯沼硫黄鉱、弟子屈金山、錦沼鉄鋼の開発程度に終わったようで、七十五件全部が新開発されたら阿寒国立公園は虫食い状態になっていたのかも知れません。
原始林の伐採も相当行われ、昭和十八年には屈斜路保安林の指定が一部解除され、同年屈斜路湖中島の貴重な原始林も伐採されたようです。
また昭和十五年頃には尻駒別川一帯の造材や搬出作業が主要因とみられる阿寒湖シリコマベツのマリモが消滅する被害も発生しています。
このように、戦争によって阿寒国立公園も大きな痛手を受けましたが、「もし戦争がもっと長引いていたら、また国立公園に指定されていなかったら現在の観光地弟子屈町の存在も危うかったのではないか」と考えずにはいられません。
