※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(10)

前号まで安田善次郎が、硫黄砿石の精煉所や鉄道を建設して、 本格的な事業経営を初めたことを勉強しましたので、今回は標茶・釧路間の水運と、SLや蒸汽船に利用した石炭採掘について勉強したいと思います。

諸史料に掲載の釧路川水運

まず、釧路川の水運ですが、 これがなかなかの難物で、次のように史料によってまちまちになっています。

◎更科町史と弟子屈町史
前年(明治二十年)の六月には釧路川に「第一釧路丸」(五トン)「第二釧路丸」(六トン)「第三釧路丸」(六トン)の三艘の汽船が配備され、春採石炭を燃料にして、一〇〇石船の曳き船として、釧路〜塘路間に就航しているから、画期的な輸送体制だったといえる。 はじめは八馬船も入れて塘路〜標茶間の運行も計画したらしいが、これは流路屈曲があまりに多いうえに、流木の危険もあって中止されたらしい。

◎標茶町史考前編
最初標茶塘路間六馬力船、塘路釧路間八馬力船を曳船に使用する予定であったが、塘路より上流は水流に屈曲が多くかつ流木のため危険であったので、二二年釧路集治監では囚徒を使役して流木の引揚等の浚渫(しゅんせつ)を行なったが、汽船の使用には不適当であったため、専ら塘路より下流の曳船に用いられた。これに用いられた汽船は三艘、春採の石炭を利用した五竜乃至六道の小型蒸汽船で何れも第一、二、三の番号を付された釧路丸と名付けられていた。

◎新釧路市史(第二巻)
安田の時期になると、鉄道開通前に、すでに六馬力の汽船一隻で、百石積の曳船を使って、硫黄を運んでいた。このため囚人は船の航行のじゃまな沈木をとりのぞくため川ざらいにも動員された。鉄道開通後、 標茶でも量産されだした明治二十二年から、川運搬の汽船は三隻で、みな五〜六トン級の小型蒸汽船をつかって小舟をひいた蒸汽船も春採の石炭を動力として使用した。船は標茶-塘路フツコロベツ間を一隻で二五から五〇石積の回送船で運び、これより下は別の汽船が百石積みの達磨(だるま)船で、釧路港までさげた。釧路でいったん、オダイトにあった事務所の倉庫に人れた。汽船が入港すると手押車で知人へ運び、艀(はしけ)で本船積みした。

◎北海道鉄道百年史上卷
北見・網走・斜黒の各地から早朝に出立して釧路鉄道を利用すると、その日のうちに標茶停車場に到着することができ、ここに一泊して翌朝湧北別(五十石のこと・筆者)に至り、小蒸汽船(第一釧路丸から第三釧路丸まで三隻あり)に便乗して同日午前中に釧路港に着船できた。

◎明治二十八年六月一日発行庚寅新誌社、汽車・汽船旅行案内
釧路鉄道は釧路川の中流標茶に起こりて、その上流右側に位する硫黄山の東麓跡佐登駅に終わる線路の延長二五哩七八なり、本州との連絡は青森より函館まで定期の船にて渡り、函館より釧路湾までの便船にて釧路へ着く。ここより安田硫黄事務所の小蒸汽船に乗り湧別に至り、さらに黒にて標茶に達すべし。釧路と網走の間四〇余黒の道程乗馬荷馬とも各駅に備へありて旅行者の不便少しもなし。およそ函館よ北見地方へ行かんとする者は標茶より登まで汽車に乗り、さらに途中野川に一泊すれば翌日は一日にて斜里にても網走にても、その志す所に至るべし

以上今後の町史編集の参考に、五資料の要点を原文のまま記載しましたが、読んでおわかりのとおり、標茶・釧路間の釧路川小蒸汽船による近代輸送は、釧路〜塘路間、釧路〜湧別(五十石)間、釧路〜標茶間の就航と、三つの見解に分れています。

なお、この小蒸汽船と鉄道が、全国汽車汽船旅行案内にも掲載されるほど重要視されていることに、注目したいと思います。

安田側の史料と新聞報道

次に安田側の史料や当時の新聞によって釧路川の水運を勉強しましょう。

◎大和工業史
釧路川運航には七隻の汽艇がそれぞれ百石船一、二艘を曳行して一日一往復し、毎年約十万石の硫黄を搬出した。「事業着手順序」によれば、塘路・釧路間として七馬力汽船二艘、標茶・塘路間として五馬力汽船四艘、汽船曳船用として百石積六艘を釧路で製造すべきことが定められ、外に五馬力汽船一艘が郵船会社に託して釧路へ回航された。この最後のものは「安田善次郎伝」明治二十年一月二一の條に、隅田川で試乗され、第一釧路丸と命名されたとあるものである。船舶予算としては八、〇三十一円七六銭八厘が計上され外に、川浚費として三千円が予定された。この事業は硫黄山が返還されたおり、同時に山田朔郎氏に譲渡されたが、その後育成されることなく終ったらしい。

◎明治二十年十二月十五日付北海道毎日新聞
汽船は現に運転せるものは六馬力船一般にて百石船一般を曳き釧路と塘路の間を毎日一往復せり然れとも不日八馬力船二艘竣工直に其運転を試むる筈なりと聞く最初六馬力船は標茶と塘路の間の八馬力船は塘路と釧路の間の曳船(ひきふね)に供する見込なりしが塘路以北は水流屈曲甚だしく加ふるに流木多く危険にして航行し難きをもって浚渫を終るまでは悉皆(しっかい)塘路以下に使用する手続なりと。

釧路川蒸汽船の水運考

このように七つの資料を比較してみると、釧路川航行小蒸汽船の隻数やトン数、運航区間等にちがいのあることがよくわかりますね。従ってこれを総合して読者の皆さんどうぞご判断してくださいと言いたいのですが、それではあまりにも無責任なので、最大公約数的な私の判断を書きましょう。輸送に対する安田の基本的な考えは、手数とかかる人力や馬送を排することにありました。標茶跡佐登間に鉄道を建設したのもそのためですね。従って跡佐登標茶を鉄道、標茶釧路間を小蒸汽船の曳(ひ)き船による一貫輸送が原則であったことはまちがいありません。このため鉄道開通以前に、東京で建造した第一釧路丸を、春採の石炭を燃料として釧路・塘路間に就航させたほどでした。

しかし、塘路・標茶間は流木等の処理が必要で、三千円の予算を計上し、釧路集治監の囚人労働力を利用して釧路川約六里の浚渫を、明治二十年六月から着工させ、二十二年三月に竣工させたのです。

さて、ここからが大胆な推測ですが、釧路川浚渫工事完成後、釧路〜塘路、塘路〜標茶間の小蒸汽船による曳き船を実施したものの、川の水量や屈曲のためスムーズに運航されず、下流の釧路・塘路間の就航期間が多くなり、明治二十八年ごろには塘路より上流の湧比別まで運航するようになったと考えたいのですが、いかがでしょう。また、こうした状況から、蒸汽船の必要隻数も減少し、釧路丸三隻で対応できたと想像しています。

釧路石炭砿業の誕生

釧路地方石炭産業のルーツは、釧路のオソツナイの採炭や、安政四年の白糠石炭岬の採炭ですが、本格的には安田が釧路鉄道や標茶の精煉所や小蒸汽船の燃料用として拓いた安田炭砿です。

このヤマの権利は、明治二十年に硫黄山と共に山田から安田に移ったもので、同年秋春採湖の東岸にある春採炭山から採掘を始めました。掘り出した石炭は第一釧路丸の燃料にしたようです。

鉄道や精煉所の燃料需要が本格化した明治二十一年秋には大安坑を、二十二年には大成坑を開坑しました。スペースの関係で詳細は略しますが、この炭鉱は更に規模拡大して安田堅坑や小盛坑を開砿し、やがて木村炭鉱を経て現在の太平洋炭砿に発展し、釧路最大の基幹企業となっていることを特記します。

また、安田はレールと舟の一貫輸送に関心が深かったようで、この炭鉱の石炭輸送も、明治二十三年には春採湖畔の貯炭場から、春採湖内二十余町を小舟で運び、沼尻から約一里を別図のように、現在の米町大通経由で築港入口付近まで馬車軌道で輸送しました。これを釧路川の小蒸汽船の曳舟で標茶へ運んだ(帰りは硫黄を輸送)ことは言うまでもありません。