※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(9)

前号まで安田鉱山鉄道の工事や予算などを見てきましたので、今回は蒸気機関車や列車運転状況などを勉強しましょう。

道東初のSL(蒸気機関車)

明治五年の新橋・横浜間の開業以来、日本の鉄道はイギリスやドイツの技術指導を受けていました。しかし、北海道では開拓使がケプロンやクラークなどアメリカ人の指導を受けていた関係もあって、道内初の手宮・札幌・幌内間の鉄道も、アメリカ人の技術指導により、アメリカ製のSLを使っていました。皆さんもおなじみの義経号や弁慶号などです。

では安田山鉄道はどうだったのでしょう。ここでは外国製の機関車・貨車・レールなどを使っていますが、工事や機関車運転等はみんな日本人の手で実施したように考えられます。(後述)

目玉となる機関車はアメリカのボールドウィン社製カーメン型二両で、写真のように大きな煙筒と前照灯、それに小さな三つの動輪とトロッコのような炭水車、前方にカウキャッチャーと呼ばれる大きな排障器があり、まるで西部劇に出てくるSLそのままです。

このSLは、在来線を走れる蒸気機関車では日本一小さく、これを義経号や釧網本線で大活躍していたC五八型機関車と比較してみると表一のようになります。

このように安田砿山鉄道のSLは義経や弁慶号よりひと回り以上も小さく、重量はC五八型の六分の一程度で、後述するようにあまりにも軽量のため、短命に終ってしまいます。

進善号か進善号か

さて、このSLは一八八七年明治二十年) アメリカ製のピカピカの新車でしたので、安田善次郎は自分の名を一字づつとって、長安号・進善号と名付け、おおいに誇りとしました。

ところが、長安号はあまり異論が無いのですが、進善号の方は、そうではなく善進号だという反対意見もあって、史料も次のように二つに分かれています。

進善号と呼しているもの
大和工業史・釧路川紀行・北海逍鉄道百年史・新日本鉄道史

善進号としているもの
標茶町史考・新釧路市史・くしろ百年・日本の蒸気汽関車・磯部神肝手記

こうした命名論議に対し、安田善次郎の鉄道事業を研究して、「ある先覚者の軌跡」を発行された伊藤東作氏は、長安号・進善号を正とし次のように述べています。

「安田善次郎伝はじめ関係記録には、『進善』とあり、彼が善を進めることを終生の念願としていたことから、その出典は進善之旗と思われる。すなわち、尭帝(ぎょうてい)時代に目印の旗を道に立て、善を進めんとする者を、その下に立って言わせたという故事にもとずく。また『長安』は漢の恵帝時代に築いた都城であり、長く安かれと祈ったもの。長は長所であり善にも通じるところから、あえて選定したものであろう」

と。私もこの意見に賛成したいと思います。しかし、気になることは磯部神肝翁の手記に善進号と記載されていることです。

磯部翁は道東鉄道の大先輩で、明治三十一年に機関車の掃除として勤務し、当時建設工事中の滝川・旭川間で、工事列車として活躍中だった進善号の掃除や、整備をしていた方なのです。

こうした現場の直接関係者が善進と呼んでいたことは、よく考えてみる必要がありそうです。私流の勝手な解釈ですが、当時の花形であったSLの乗務員が、進善と呼ぶより、機関車の使命である善進前進」の方が呼びやすく相性が良かったのではないでしょうか、そしてこうした乗務員の呼び名が、後世の機関車名の混乱になったと思うのですがいかがでしょう?

国際連合のような列車

次に貨車を勉強しましょう。これはイギリス製で自重二・五トン。バラ積みの硫黄を積みやすくするため、貨車の周囲を高くした屋根の無いもので、硫黄三十石(約四・五トン)の積載能力がありました。つまり硫黄を積んだ営車換算では両七トンで、これを二両購入しました。

このようにアメリカ製のSL長安号と進善号は、硫黄山・標茶間をイギリス製の貨車七両を引いて、ドイツ製二十五ポンドールの上を、シュッポ・シュッポと走ったのです。まるで国際連合のような列車ですね。

面白いことに日本の鉄道では、東京方面に向う列車を上り、反対方向への列車を下りと言いますが、安田砿山鉄道では標茶から疏黄山に向う列車を、山に登るということから上りと言い、硫黄山発の列車を下りと呼びました。

また、機関車運転開始のころ、燃料として石炭を使っていたか、薪を使っていたかも興味深いものがあります。弟子屈町出身の更科源蔵氏の著「父母の原野」に

「標茶からさきは、硫黄の採掘している跡佐登というところまでは、伯父のつけた鉄道があった。朝と晩方には、薪をたきながら、ビー、ボー、と悲鳴のような汽笛を鳴らしながら、硫黄を満載して、おもちゃのような貨車が、ゴッコー、ゴッコー、と走っていた」

と当時の列車の状況を鮮やかに表現しています。そのころはまだ更科先生はお生れになっていませんが伯父の更科鉄太郎氏は、後述するようにこの鉄道の保線の責任者と考えられるところから、薪をたいて走った情景などを、伯父さんから聞いたのかも知れません。

また、釧路地方の石炭採掘事業も、安田が硫黄山と共に権利を得た大安坑の本格採炭が、 明治二十一年十一月からであることを考えると、運転開始当初のSLが、薪をたいて走っていたことは十分に考えられます。何分にもそのころの標茶や弟子屈は、無尽蔵と言われた木材の宝庫だったのですから。

安田砿山鉄道の運輸成績

さて、このようにして熊牛と呼ばれた無人の原野に、道東初の汽笛を響かせて華々しく登場した鉄道ですが、当初は硫黄専用の鉄道だったので、正確な列車運転時刻などは今のところわかりません。参考までに本格的な列車運転を開始した明治二十一年の運輸成績を表二に掲載します。

また、この鉄道は、明治二十五年に専用鉄道から一般営業を取扱う鉄道となりますが、それまでの間の運輸成績も表三として掲載しておきましょう。

これらの表を見ると、安田が計画した約三万石の硫黄の採掘と輸送体制は、十分にその目標を達成していたようです。

また、表三によれば毎年旅客を千人以上輸送していますが、これは入植者の増加にともなう要望にこたえ、無賃乗車と雑貨の無賃輸送を実施したからです。

なお、この鉄道の開通によって釧路から魚や雑貨が入荷しやすくなり、労働者の食生活が改善されたということです。