※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(5)

硫黄山〜瀬文平間道路の記録

前号で四代目佐野孫右衛門が、硫黄輸送のため道路を拓いたり、馬や舟などを導入し、当時としては大きな資本投下をしたことを見ましたね。明治十九年に屯田兵司令官・永山武四郎に随行してこの地を調査した栃内元吉 (屯田兵村建設の功労者)の日記がありますので、それも見ておきましょう。

それは

「硫黄山(注1)ヨリツブンビラニ至ル道路ハ其幅広カラザルモ坦々砥平(たんたんていへい)、佐野孫右衛門ノ開鑿(かいさく)二係り一日数百ノ駄馬ラ往復セリ、深山ノ中此ノ一大道路ノアルハ実二予想外トス」

という内容です。つまり「砥石(といし)のような平らな道が、こんな山の中にあるのは予想外」と驚いているのですが、これは少々オーバーな表現ではないでしょうか。

しかし、道らしい道も無い山中を越えて来たのですから、或いはそのように実感したのかも知れませんね。また、道路を拓いてから数年を経て人馬の交通が増加し、次第に道路が良くなってきたということも考えられます。

佐野の経営状態と終えん

このように努力して佐野家の将来をかけた硫黄山経営でしたが、その内容はどうだったのでしょう。北海道勧業年報によって年次ごとの硫黄採掘量や、収支のバランス等を見ておきましょう。この表によると、本採掘を初めた明治十年から三年間は、採掘量も少なく収支トントンです。しかし、道路が完成し馬と舟による一貫輸送を開始した明治十三年には、採掘量が著しく増加し、翌十四年からは毎年黒字を計上しており、特に明治十六年には九万二千石の硫黄を産出し、収益も大幅に増加して全道一の硫黄鉱山になりました。

また、硫黄の品質も良好で、明治十七年(注2)十月札幌で開催された共進会で、一等賞を得たほどでした。

佐野家の硫黄山経営は明治十年から八年間にわたりますが、その総合計では三七、三九七円の収益を得ています。しかし、これは硫黄採掘や輸送や販売等の直接経費の収支であるものと考えられ、道路づくりや馬四百頭の導入等、初期投資を含めて計算すると、果して黒字経営であったかどうかは疑問です。

さて、佐野家にとって命の綱とも言える硫黄山の経営が、必ずしも良好と言えなかったうえ、次ぎつぎと悲運に見舞われました。四代目孫右衛門は明治十三年病気のため隠居し、実弟儀十郎を五代目孫右衛門としますが、この五代目も翌明治十四年に死去してしまい、おまけに長い間釧路地方の産業界を支配してきた漁業の権利も、明治政府がテコ入れをして創立した、清国との貿易会社広業商会の支配人武富善吉の手に移ってしまい、武富は佐野に代って明治期における釧路財界の雄となります。

このような事情から、硫黄山の経営も孫右衛門の配下の西川幸右衛門が担当しておりましたが、とうとう行きづまり、明治十八年には最後の切札である硫黄山の権利も、函館の銀行家山田慎の手に移ってしまいました。

山田慎の硫黄山経営

明治十八年六月硫黄山の経営は、佐野から山田朔郎の手に移りました、しかし、朔郎は当時僅か七才の幼児であり、単なる名義人にすぎません。従って実際の経営は父の山田慎が実施しました。

山田は福井県の出身者で、函館山田銀行等を経営するほか、北海道開進社を起して北陸との航路を開くなど積極的な事業家でした。従って硫黄山の経営にあたっても、佐野時代に比べて新しい方針で規模拡大を計画しました。

第一に実施したのは硫黄山全体の測量と調査で、農商務省にお願いして明治十九年(注3)八月技師三田守一の出張を得、硫黄含有の鉱区は五五、六一〇坪であることを確認し、増区願を提出しています。

残酷をきわめた囚人労働

更に経営効率を高めるため、明治十八年標茶に開庁した釧路集治監の囚人を安い賃金で豊富に利用することを考えました。

釧路集治監のことは、後に改めて詳しく掲載する予定ですが、集治監設置の目的は、当時激増した政治犯その他の囚人を、逃げることもできない厳しい風土の北海道に収容し、併せて未開の北海道を拓くために、緊急を要する道路建設などの土木工事の労働力に使用しようという冷酷な政治方針からでした。

こうした目的から標茶の位置が東北海道(注4)開拓幹線道路建設の拠点として便利であったこと、釧路川が中央に流れ釧路への舟運の便がはかられる立地条件が良かったわけですね。或いは硫黄山の採掘作業に囚人使用を考えていたのかも知れません。

事実標茶町史考(注5)によれば山田の要請に対し、集治監側の考えは、「最初山田と十か年雇役の契約をなし、最低工銭一囚一日十五銭とし、出役の囚人五百名の一割を病者と仮定しても、半か年に一万千五百四十二円五十銭の収入を挙げられると推算したものの如くである。これは集治監作業収入の上から甚だ不利な条件であろう」

と書いてあります。しかし、囚人の一割が病人になることを胸算用したり、山田が一般労働者に支払っていた一人一日の労賃四十銭に対し、僅か五銭で労力提供するなど、全く人権を無視した集治監の考え方と言えるのではないでしょうか。

こうして山田の要請により、硫黄山における囚人の労役は、明治十九年の硫黄山硫黄鉱採掘から始められました。囚人二五〇名を硫黄山の監獄 (外役所という)に収容して、日々百数十名を山田朔郎に貸し与え、作業に従事させたということです。

しかし、囚人使用の硫黄採掘作業は残酷をきわめ、失敗に終りました。それは硫黄山から噴出する水蒸気や亜硫酸ガスや硫黄の粉末等によって、作業に従事した囚人の半数以上が目をいため、中には失明した者も出たということです。

特に明治二十年になると、栄養失調による水腫病のため、僅か半年の間に囚人三百余名中一四五名が罹患し、そのうち四二名が死亡するという悲惨な状況でした。このため明治二十年十一月には、山田の後の経営者安田善次郎の願い出もあって、硫黄山の囚人労役を廃止し、その後は標茶に建設され硫黄精煉所で、運搬等の小規模な雑役に従事させたということです。

鉄道建設を計画した山田

山田の硫黄山経営の中で注目したいのは、この地に鉄道を建設して、硫黄の大量生産を計画したことです。日本の鉄道は明治五年の新橋〜横浜間が一番早く開業し、北海道では明治十三年の手宮〜札幌間が最も早く、この線が札幌から幌内まで延長して、石狩炭田の石炭を小樽港まで鉄道輸送を開始したのは明治十五年のことです。

従ってこのレール一本しか無い北海道で、政府の力を借りず、民間の力で鉄道建設を計画したのですから、山田の近代的な経営センスは評価したいと思います。

山田(注6)の鉄道建設のために使用する国有地の無料使用願出は、明治十八年に提出され、翌明治十九年に許可されますが、ここまでが彼の仕事の限界で、資金的に行きづまり、経営する銀行の借財等も重なって、硫黄山の経営は一代で安田財閥(現在の富士銀行系)を礎き上げた安田善次郎の手に移り、硫黄山はいよいよ道東地方に近代を呼び込むような大規模経営に発展するのです。

佐野硫黄山事務所 (釧路市史より) 

注1 佐藤尚釧路川紀行23頁
注2 標茶町史考前編141頁
注3 大和工業五十年史7頁
注4 佐藤尚•安田の硫黄=釧路地方近代の起点
注5 標茶町史考前編72頁
注6 山田慎の鉄道建設資料

乾第百八号
官有地無料貸渡之義伺
釧路国川上郡屈斜路村外二ケ村地内
大阪府西区上佐堀-丁月四番地
山田朔郎後見人
借地願人 山田 慎

一、原野反別六拾四町八反步
長壹万九千四百四十間幅拾間

明治十八年ヨリ同三十二年マデー五ケ年季管下釧路国川上郡屈斜路村字跡佐登硫黄山ノ義ハ頻年產額多ク追々隆盛二可相成見込二有之候得共運輸頗ル不便ナルヲ以テ(中略)鉄路布設候トキハ ニ鉱業ノ隆盛ヲ致スノミナラス地方開進ノ一端トモ可相成義ト考慮候条願之通至急御允裁相成候樣別冊仕様帖並図面相添比段相伺候也

明治十八年十一月十七日

根室県
湯地定基
農商務卿伯爵西郷従道殿
伺之趣聞届候条分済例表机添ヘ届出事
明治十九年一月九日
農商務大臣子爵谷干城