※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(6)

前回まで佐野孫右衛門や山田慎による、初期の硫黄山経営について簡単に見てきましたが、これからが本番です。それは硫黄山の硫黄資源をめぐって、新しい製煉工場や道東初の鉄道が運転を開始し釧路川には小型の蒸汽船が運航されるなど、釧路地方の近代の起点と言われるほどの画期的な大事業が実施されたからです。そしてその事業を推進したのは、富山県出身の一代で三井・三菱などに次ぐ財閥を礎き上げた安田善次郎だったのも意義深いからです。

私がこの物語を書き初めたのは昨年十二月からですが、それは昨年が硫黄山〜標茶間鉄道開通百年の記念すべき年であり、またその百年間に陸上輸送の王者を誇った鉄道が、自動車や飛行機によって経営が悪化し、国営企業から民営分割となったほか、赤字ローカル線が廃止されるなど、目まぐるしい変革の年だったからでもあります。

いま一つ考えたことは、わが弟子屈町内には安田善次郎と同郷の、富山県出身者の子孫がたいへん多いということです。それは明治十年弟子屈に設置された御料局川上出張所長小田切栄三郎の先見によるもので、小田切は弟子屈の開拓にあたり、雪国で耕作地も狭く、勤勉で忍耐力の強い富山県の農民にスポットをあて、積極的に富山県から弟子屈町内に移民を導入したからです。

このように弟子屈町の初期の事業も開拓も、富山県出身者によって実施されたことに何か因縁のようなものが感ぜられてなりません。また、私自身も三十六年間国鉄に勤務して、安田鉄道に深い関心がありますし、父親が明治三年代に富山県から裸一貫で釧路に移住し、越中さんと愛稱された小商人であったことを考えると、より深い何かが私の筆を動かしているような気がいたします。

少年期までの安田善次郎

さて、安田の硫黄山経営は僅か十年ほどで、硫黄資源を掘りつくしての見事な撤退ぶりから、郷土史等での人物評価はまちまちです。また一代で財閥を礎き上げたのですから、個人的な人気もまちまちです。そこで硫黄山の事業に入る前に安田善次郎伝によってその人となりを簡記しておきましょう。

安田善次郎は天保九年(一八三八年)に富山市の町外れの下級武士の子として生れました。 武士と言っても元来は農民で、祖父の時代に北陸地方がかつて無い凶作に見舞われ、多数の餓死者が出たのに、武士は下級の者でも殿様から給料として米が支給され、さほど苦労をしなかったのを見て、祖父は足軽でもよいから武士になりたいと念願し、父の善悦は勤倹貯蓄につとめてようやく下級武士の株を買い、祖父の悲願を達成したという家柄なのです。

こうした父の勤勉さは善次郎に強い影響を与えたのは当然です。八才(当時は数え年・以下同じ)で寺小屋に入り、十二才で寺小屋を退くと行商を初めました。子供の行商といえば大変なことと思うでしょうが、当時の富山地方ではごく当然のことだったようです。

しかし、善次郎の商売は他の子供たちとはちがいました。野菜を仕入れて漆器の産地に売りに行き、帰りは漆器の仕入れをしてこれを売りさばくという方法で、他の子供の二倍も働きました。

また写本のアルバイトもしています。子供ながら字の上手だった善次郎は、豊臣秀吉の出生物語閤記を二回も写本して相当なアルバイト料を得ています。

善次郎の江戸への出発

もともと利口だった善次郎は、太閤記の写本によって身分の低い者でも立身出世の道があることを知り七才のとき立派な人間になろうと両親に無断で江戸に向けて出発しました。 しかし関所の通行手形が無いのですから、今でも険しい富山から飛騨への山路を進み道に迷ってしまいました。幸い親切な猟師に忠告されて両親のもとに戻ることができました。

富山に戻ってからも善次郎の江戸へ行きたい気持ちはつのるばかりでした。それは以前に見た藩御用達の商人を、身分の高い立派な武士が頭を下げて丁重にもてなしている姿が連想されたりするからでした。或いは家柄や身分制度にしばられる現状よりも、実力次第の商人の世界に自由の天地を見出したのかも知れません。

再び江戸に出奔したのは二十才のことでした。この時は無事に江戸に到着し一時的に両替商に奉公しますが、三人の男の子を失い善次郎だけが頼りの両親の願いを入れ、迎えに来た叔父と共に再び富山に帰りました。しかし、僅かながらも江戸での貴重な体験を積んだ善次郎は、自分の将来に対し両親を説得する十分な理由づけがあったようです。

今度は両親の了解を得、三度目の正直で晴れて江戸に向うことになりました。それは安政四年のことで、黒船に乗ったペリーが浦賀に来航後五年、国論が尊王攘夷と開国に二分され、やがて吉田松陰など攘夷派の人びとが弾圧された、安政の大獄の前年という激動期でした。

露天の両替商から銀行家へ

江戸に出た善次郎は玩具の行商や両替商の奉公を六年勤めました。行商では江戸の地理を覚え、また当時の両替は卵や鰹節の商売を兼業していましたので、商人としてのコツや、両替商としての金銀銅貨や貴金属鑑定の技術を磨きました。特に両替商にとって最も大切なことは、鑑定の確かな目です。それは大判や小判などは古いものほど金の含有量が多く、新しいものは質が悪くなっており、銀貨や銅貨にも値うちに差があるからです。従ってこれらを早く正しく評価して交換するのが両替商の腕前で、しかも絶対まちがいが無いという信用第一の商売です。

二十六才になり両替商としての腕を磨いた善次郎はいよいよ店を開くことになりました。元金は奉公をしながら貯えた五両程度、店は日本橋小舟町の四辻の露天でした。これが安田財閥への第一歩だったのです。

善次郎の勤勉さと確かな鑑定は次第に信用を広げ、翌年には小さな店を持つようになり、更に妻帯して夫婦共稼ぎで店を繁盛させました。

さて、大きな成功を収めるには健康と先見と実行と忍耐が必要です。そのころは幕末から明治維新にかけてかつて無いほどの動乱期でした。従って現金を取扱う商売にとって最も困難な時期に、善次郎はそれを逆手に取って大成功を収めました。

そのころ江戸市中には幕府の威令も効果が無く、軍用金集めを名目とした強盗や悪い浪人などがはびこっていました。それを恐れて他の両替商が店を閉めているのに、善次郎の店だけが危険をおかして開店し、大きな利益と社会や幕府の信用を得ました。

明治になると新政府にお金が無いので、紙幣をどんどん発行しました。しかし貨幣制度しか経験の無い江戸の市民や両替商が、できたばかりの明治政府のお札を十分信用するはずはありません。紙幣は貨幣の三分の一まで下落してしまいました。これに便乗したのが善次郎で、将来を信じて紙幣を積極的に取扱い、やがて巨大な利益を得ると共に、新政府の信用も得るようになりました。

また、新政府の誕生によって藩や武士の制度が廃止され、それらの人びとの生活を保証するため、政府は今の年金のような秩禄公債や金禄公債を発行しますが、善次郎はこれを担保に金融し、大きな利益を得たということです。

このように激動期の荒波を上手に乗り越え、巨利と信用を得た善次郎のその後の様子を年表によって見てみましょう。

明治五年 司法省の御用を勤める
明治六年 弗(ドル)相場開設を鹿島万兵等と願出 七月業務開始
明治八年 栃木県為替方となる
明治九年 第三国立銀行を創立
明治十一年第四十一国立銀行創立
明治十二年大蔵省収税預り人となる。正金銀行創立発起人となる
明治十三年安田銀行を開業する
明治十四年農商務省為替方となる
明治十五年日本銀行理事兼割引局長嘱託を命ぜられる。

このようにして善次郎は、露天の両替商から日本一流の銀行家になりました。しかも日本銀行の創立に参画し、最も大切な為替局長を委嘱されたのですから、その実力と信用は絶大なものです。

従って明治十五年は安田財閥の基礎が固まった年であると言われており、当地方の史料の中の「硫黄山の経営によって安田財閥の基礎がつくられた」という説は、適当ではないと思います。

その後安田善次郎の目は、有力な競争相手のいない東北や未開の北海道にそそがれ、 県庁や道庁の遊金を預って運用するなど、次第に北方にその実力を発揮するようになりました。