※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。

硫黄山と鉄道百年物語(7)

山田慎から安田善次郎へ

前号で述べた勤勉で先見と実行力のある苦労人安田善次郎が、硫黄山の経営に乗り出す日がやってきました。話は安田財閥の基礎が固まったと言われる、明治十五年にさかのぼります。

同年一月第四十四国立銀行が倒状態になったとき、同行の支配人山田慎から私財の硫黄山を担保として、安田善次郎に救済を求めてきました。

この銀行は安田の経営する第三国立銀行に合併形式で救済されますが、米回収となった貸金がありました。そこで山田は安田と共同で硫黄山の硫黄採掘経営を実施し、その利益金で借金を返済したいと相談したもようです。

ここで考えなければならないのは、明治十五年の硫黄山はまだ佐野家の経営であり、翌十六年には九万二千石の硫黄を採掘するというように、企業努力が軌道に乗ってきた年代であるということです。それなのに硫黄山の経営権が損保の対象になっていたということは、当時の佐野家は山田からの借財でその実権が佐野から山田に移っていたのかも知れないということになりますね。

安川善次郎伝によると、明治十七年四十七才になった安田は、はるばる北海道の視察に出発しています。目的は競争者の少ない東北、北海道進出の足固めと、山田の経営や硫黄事業等の実情調査でした。

「翌十七年夏に至り、先ず北海道に向って出発した。 函館に着し小樽に赴き、札幌に至り幌内炭坑等を視察し、一たび函館に引返した。これより先、同地の銀行にて、氏の助勢を請う者ありしを以て既に取引を聞いて、これを助け居たりしに困り、氏は函館を以て、北海道発展の根拠地とし、なお函館より釧路及び厚岸に赴き、根室に回り、この地に在る山田銀行支店の状況を調査し、更に千島に至り、国後の硫黄山を調査した。 これは北海道の硫黄業者より、往々資金の援助を求めらるること有るを以て、硫黄産出の実地を調査する為であった。氏が後年硫黄山の経営に関係しは、蓋(けだ)し端をこの行に発したものである。」

この安田善次郎伝によってもわかるとおり、安田と山田の関係や硫黄山経営の話合いは、明治十七年以前に行われていたことは明らかです。特に注目したいのは、安田が資金援助をする場合は、事前調査を徹底的に実施するということで、この場合も全く交通の不便な北海道まで遠来し、然も国後島まで行って硫黄採掘の実情を見聞しており、安田善次郎特有の堅い経営方針が伺われます。

子供どうしの共同経営契約

硫黄山の経営について、 安田と山田との話が具体化してきたのは明治十九年で、貸金回収の目的でやむなく経営にタッチしたことが、安田善次郎伝に書かれています。「氏は従来金融業を主とし、余儀なき場合に陥らざる限り、自分が引取って事業を経営することは為さぬ方である。則ち氏が自ら経営する場合は、いつも貸出しが失敗に傾いて来た時である。故に氏が事業に手を下だすは最後の時に限っていた。例せば釧路硫黄山の如きも、その初めは自家経営の本旨ではない。貸金の不回収により、止むを得ず自らこれを経営するに至ったのである。(本伝の二十五)」

このようにして明治二十年三月二十七日付で、安田善之助(善次郎の長男で当時八才)と山田朔郎(慎の長男で九才)の間に、次のような条件で契約がまとまりました。昔はこのような子供でも、大切な契約の名儀人になることができたのですね。

契約の要旨は、硫黄採掘事業を行うため、山川が政府から硫黄採掘奨励金として借り受けた三十五万円と、安田家からの出資とで共同事業を企画し、硫黄山の採掘権は十ヵ年の借鉱契約で山田朔郎から安田善之助名儀に書換られ

一、安田の出資金には年利一割二分を付すること。
二、利益金より毎年二万円を政府に返納すること。
三、残りの利益は安田・山田で折半取得すること。
四、山田の受取る利益から第四十四銀行の未回収貸付金を補填すること。
五、出資及び銀行不良債権全部を償却し終った時には、硫黄山を無償で山田に返戻すること。

こうしてできた新企業は、釧路硫黄山安田事務所と言い、資本金は十五万円で、釧路に事務所を置き(翌二十一年には標茶に移した)山元と標茶と函館に派出所を設け、役員としては元締が安田善次郎、事務所長は姫路出身の杉山城吉、相談役に山田慎、主事には安田側から原川虎太郎、山田側から柳田教誠という構成で、共同経営ではあっても、全く安田主導の役配置となっていました。

安田の硫黄山経営計画

綿密な事前調査を実施した安田善次郎の胸の中には、不良債権を短期間に回収するという目的から、収益性を高めるため硫黄の製煉・輸送に近代的な設備を導入して、大量生産とコストダウンをはかり、併せて保管・販売の改善や、安くて豊富な労働力として、標茶の集治監の囚人利用を目算していたようです。これらを「釧路硫黄事業大要見込書」によって、その概要を見ておきましょう。

(製煉)硫黄の生産目標を年十万石とし、うち三万石を山元の焼り製煉で、残り七万石は山元より水利の便の良い標茶に設ける新式の蒸気製煉器で行う。この費用概算七、五九〇円余

(運搬)山元・標茶間三十八キロは機関車鉄道を敷設する。 標茶・釧路間七十二キロは汽船により輸送し、釧路・函館間は汽船会社と契約し、定期に回漕(かいそう)する。

(貯蔵)山元、標茶、釧路 函館の四カ所に貯蔵庫を建設または倉庫を借用する。その費用概算五、一五〇円

という内容です。今では何の不思議もありませんが、道内にはまだ手宮・幌内間に一本の鉄道しか無く、日本一の大幹線である東海道本線も全通していない明治二十年に、山田の事前計画はあったにしても、私企業で鉄道建設や蒸気船運航を計画し、実行したその決断には頭の下がる思いがします。

なお、こうした巨大投資の陰にかくれてあまり目立ちませんが、当時硫黄は電気・染料・マッチ・火薬・殺虫剤等に利用される国際的な重要資源で、相場の変動の激しい商品でしたが、これに対応する安田の忍耐と商魂は抜群のものがありました。これは後述したいと思います。

硫黄製煉施設等の建設

ここで製煉等に対する安田の計画と実際を、北海道鉱山略記その他によって勉強しましょう。

硫黄山の山元では今まで旧式で小型な日本風の釜を利用して製煉していましたが、生産効率も使用する薪の燃料効率も悪いので、新しく宇都宮氏の改良点を取り入れ径三尺の大釜を採用して、能率アップをはかりました。これにより薪の使用が四割も減少しました。

また、山元に木道一九五間、製煉場六棟、荷作所一棟、坑夫小屋一棟及び倉庫一棟を新築したということです。

さらに中心拠点となった標茶には、計画どおり最近式の蒸気製煉器を導入しました。これは三井物産の岩内硫黄山で使用していたものと同じもので、九石入りの溶解鑵六基を一組とし、蒸気鐘は十二馬力のもの二基、気圧は六十ポンドで、一時間半で硫黄を溶解するという当時としては高性能のものでした。

なお、これら製煉施設等のため木造柾葺二四二坪をはじめ、二十五棟の建物を次つぎと建設しました。

また、これらの設備がいつ完成したか興味深いことですが、 明治二十年十二月十五日付北海道毎日新聞によると、

「其製煉法は目下旧式のみにより新式(蒸気製煉と云ふ以下同じ)は未だ器械を据へ付けざるを以て之を用ひず旧式は釜数百拾四個ありて現に使用するは九拾個、他の貳拾四個は宇都宮氏発明の法により当時築造中なり」

とありますので、次号に掲載する鉄道建設にテンポを合わせて工事を進めたものと考えられます。