
※本記事は、1987年から『広報てしかが』に連載された種市佐改氏の文章を原文のまま掲載しています。内容は掲載当時の情報に基づいています。
硫黄山と鉄道百年物語(8)
道東では一般に鉄道が一早く開通したのは、明治三十四年の釧路〜白糠間で、これが道東鉄道の事始めと思っておられる方が多いようです。
しかし、皆さんはそうではなく、わが弟子屈町の硫黄山から標茶間の鉄道が、明治二十年に開通しており、これが道東初の鉄道であることは、もうおわかりですね。
それでは安田善次郎が不良債権を回収するだけで、豊富な資金を投入し、当時は無人の原野に鉄道を敷設したのでしょうか。もちろん主目的は貸金回収でしたが、その陰には鉄道建設ブームという当時の時代背景があったことを見ておきましょう。
安田善次郎と鉄道事業
安田と山田が硫黄山の共同経営について話合い、安田が大量輸送の手段として鉄道建設を考えていた明治十九年は、初期の鉄道建設ブームの頂点でした。
日本国有鉄道百年史によると、「特に明治十九年からいわゆる鉄道熱現象をひき起こして、各地に鉄道会社が発起された。」と書かれています。
また、安田保善社とその関連事業史にはその概要を
「明治十九年一月開始の紙幣の正貨兌換、松方緊縮財政の成功による金融緩和により、通貨が安定して金利が低下し、株式に人気が集中して企業熱が高まり、鉄道業を先頭に紡績、鉱山業に始まって、ついにその勢いは一般の各種商工業会社の新設等まで及んだ」
と、当時の異常なまでに過熱した経済界の様子が書かれています。
しかし、安田善次郎はこうした時流に便乗しただけではありません。明治十八年ころ欧米の事業視察から帰朝した武井守正の報告に深く共鳴し、大きな影響を受けたものと考えられます。
武井の説は
「後進国日本の国を富ませるためには、金融・保険・運輸の発達が必要である。それにはフランスの例により保険の制度を広め、製品に保険を掛け、保険を担保として現金化の道を拓き、そのうえ近代的な輸送機関によって、製品を迅速に輸送する。この三条件の実現により、スムーズな経済流通をはかることが富国の道に最も大切」
というものでした。
安田の礎いた財閥は、金融・保険・海上を含む輸送を主体とし、三井や三菱財閥が商社や工鉱業に発展を求めたのとは大きな相違がありますが、これは武井説を事業の基本に据えた手固さと考えられます。
安田砿山鉄道の建設開始
さて、明治十九年当時株式投資の花形であった日本鉄道(今のJR東北線)に千株を投資し、同年十一月両毛鉄道(現両毛線)の発起人代表として、ある程度の鉄道経営知識を得た安田の鉄道建設の事業開始日がやってきました。硫黄山・標茶間の無人の原野の短かい鉄道ですが、これは安田が始めて直接経営を手がけた第一号の事業です。後年安田は日本の生命線と言われた、南満州鉄道を倒産の危機から救済したり、明治四十年には東京・大阪間に今の東海道新幹線並みの高速電気鉄道を、全財産を投じても建設しょうとしていますが、このような日本の鉄道の将来を左右するほどの大事業計画の原点は、このさい果ての硫黄運搬鉄道で生れたのです。
このようにして明治二十年三月二十七日付で、安田善之助(善次郎の長男で当時八才)と山田朔郎(慎の長男で九才)の間に、次のような条件で契約がまとまりました。昔はこのような子供でも、大切な契約の名儀人になることができたのです
安田砿山鉄道と工事状況
鉄道の建設には正確な輸送量の想定が第一条件です。安田はそれを次のように立てました。
一、硫黄の年輸送量を山元製煉の三万石と、標茶製煉の生硫黄九5万八千二百八十石、計一二万万八千二百八十石とする。
二、汽車を毎年四月十六日から十一月三十日まで運転し、そのうち故障も見込んで二百日間の運転とする。
三、汽車による一日の輸送量は六百五十四石余となるので、多少の余裕を見て一回三百六十石の輸送能力のある列車を一日二往復させる。
というものでした。これに対する諸施設の予算計画は、次表のとおりです。

このような計画と予算によって、道東初の鉄道建設工事が始められました。測量は小山泰安によって明治二十年厳冬の二月に開始され、三月中に路線が確定し、四月一日から人夫三百名と、安くて豊富な標茶集治監の囚人三百名とで工事を開始しました。
なお、初期の北海道における鉄道工事は、総て囚人労働によって建設されたと誤解されているようですが、実際はこの安田砿山鉄道だけで、その他の線は上方(どかた)またはタコと呼ばれた労働者によって工事が実施されたということを覚えておきましょう。

工事は冬の来る前の完成を目指してどんどん進められました。未開の原野を切り拓いての突貫工事をするのですから、人夫や囚人はきっと過酷な労働を強いられたことでしょう。四月から築堤や切り取り・地ならし工事を実施し、木橋や枕木敷は五月から着手、七月二十一日からレール据付という強行計画で、十一月に竣工しました。でも竣工には十二月説や明治二十一年説もありますが、ここでは明治二十年十二月二十三日付北海道毎日新聞の「標茶硫黄山間の鉄道工事は本年四月廿五日より線路の再測に着手し十一月廿五日まで七ヶ月にて悉皆軌銕(しつかいれいる)の布設を結了」という記事を、工事完成の日としておきましょう。
線路の延長と工事費
では、線路の延長は史料では二十四哩余となっていますが、竣工時の実際はどうなっていたのでしょう。更に北海道毎日新聞で見てみましょう。
「鉄道幹線の延長は標茶零点より硫黄山終点まで貳拾四哩貳千尺なり支線は標茶停車場構内に二条其延長千四百八拾尺なり副線は同構内二条中央停車場「ニタトリマップ」に一条「ビルワ」に一条硫黄山停車場に二条其延長は貳千八百八拾八尺とす支線は標茶停車場に一ヶ所硫黄山停車場前に一ヶ所其延長貳千貳拾六尺にして総延長は貳拾五哩千四百九拾四尺なり」
つまり本線は二十四哩余、支線を含めると二十五哩余となります。そして停車場は標茶・ニタトリマップ(現在の仁多川付近)・ビルワ(美留和)・硫黄山の四か所にあったことがわかりますね。
またこの時に使用したレールは、ドイツ製の二十五ポンドレールで、今の規格で比較すると、一メートルの重量は約十一キロ強で、現在釧網本線で使用している四十キロレール(新幹線は六ーキロ)に比較しても、四分の一しか強度のないごく軽量のものでした。
しかし、線路の幅は現在線と同じ一〇六七ミリメートルで、一人前の規格になっていました。また、中間のニタトリマップ駅は列車の行違いをする重要な駅で、機関車の途中給水はニタトリマップとビルワの両駅で実施し、機関車の方向転換は円形の転車台ではなく、Y字線を利用しました。
このようにして道東初の鉄道が完成しましたが、当初予算は十二万円余(北海道毎日新聞では十三万円)これに対し実際の総経費は表のように多少の誤差はありますが、十七万数千円を要したものと考えられ、当時は米一升七銭で買えたということですから、それから推算すると大きな投資をしたことがわかりますね。
なお、明治二十二年に二哩余を延長しており、そのころから地図上にあるウノシコイ・ポンチクワッカ・オコンチャルの三駅が設置されたものと考えられますが詳細は今後の研究に待ちたいと思います。

